甲賀忍者と池田/古文書会講演/中岡嘉弘/2014年5月26日/大阪府池田市の歴史

池田市の歴史に興味を持って
いろんな記事を書いているうちに
池田市の郷土史研究をされている中岡嘉弘さんとご縁ありました。
過去の講演のCDを聞かせていただいておりましたら聞いてるうちに
自分だけが聞くのはもったいない!たくさんの方に聞いていただきたい!
そう思い、中岡さんの許可をいただいて、講演の字おこしをしました。
とてもおもしろいお話しです。少々長くなりましたが是非お読み下さい。

中岡さんと私です。
夢子祭りで中岡さんにチョコバナナを買ってもらいました(^^)

いきなり途中から始まります。
黒川というのは池田市の老舗日本料理屋さんです。

黒川の前身の「魚治」という料亭、そこに高浜虚子が飲みに来てたと。
泊まったかもしれませんけど、そしてそこに与謝蕪村も来てたという
正岡子規は来てないみたいですけどね
池田の魚治に来てたという事実、それが大変貴重なことです。

扁額や掛け軸はもちろんのことですが、
池田にそういった有名な人が来ていたという
これが非常に感銘を受ける、私はそんな気持ちで見ていました。

これの読み方というのが、私は読めないのでひとつ・・・
次回までに一生懸命、なんとか読む努力をしていただいて
みんなでこれが完全に読めたらいいなと思いますけど

まぁそうゆうことで、いよいよ私の本論は中世に入って来ているんですが
「源平の合戦」で平家が没落しまして、鎌倉幕府が成立して今までの貴族の
支配していた政治が武家の政治に変わって来たということで

それでもまだまだ古代の律令制という制度をまだ残しつつ、
そうゆう武家政治が始まって来たということです。
池田においても同じ移り変わりで、藤原の景正という藤原姓の人が出てきまして
まぁその人は「釈迦院の宝篋印塔」とか「常福寺に塔の基壇」が残っているんです
それから岐阜県、昔の美濃の国、そこの南の池田の庄という所から出自の
「池田教依」が多田源氏を通じて池田に入ってきます。
それまでは「坂上田村麻呂」という織姫伝説の阿知使主の子孫なんですが
坂上氏ということで池田を支配してたというか池田で勢力を持っていました。

↓釈迦院の宝篋印塔

↓現在の常福寺です


池田氏が池田に入ってきて、そして坂上氏はどんどん衰退していって
池田が城下町の形をとっていきます。
城下町と言いましても、池田のお城というのは一般に想像されるような
戦国時代以降のお城ではなくてむしろ領主の邸宅、住まいをする砦という感じで、
天守閣とか角櫓とかそういったものはなくて、
真ん中に領主の住まいする平屋の邸宅と蔵が、そうとう立派だったそうですが
それと庭園があって、周りは今のような水堀ではなく空堀で水が入ってない
ただ掘り下げた空堀が周囲にあって、そして石垣もなくてただようするに
堀を掘った土を上へ盛り上げたという、各隅には櫓を建てて周辺を見張るというか
そんな感じの城というか砦のようなものでした。

↓池田城跡から発掘された品々/池田市民族博物館で管理されています。

北側は杉ケ谷川という今もずっと体育館の裏にありますけど
あの川を一つの要害に使い、そして西側は崖になってるので
今は石段で上がるようになってますがちょっと簡単には上れません、
南側は今の法園寺というのがあります。
そこに有馬街道が今もありますが、建石町のめんも坂の通りですが、
それも含めて総構えというんですが街道を取り入れて、
法園寺をいざという時は砦として使う、防波堤という形で。

↓現在、杉ケ谷川にかかる橋



高法寺もそうだと思うんですが、そうゆう構えで池田の城がありまして、
一番池田の城の弱点は東側、池中のグランドの横ね、あそこに溝を掘りまして
今はだいぶ埋められて今はほとんどありませんけど、
ちょい前まであそこに小川がずっと流れていて、
その昔はもっとそれが深かったんですけど

今の九頭龍稲荷というのがありますが、それは昔の古墳なんですが
それを東側の堅めにしたと、だいたいその後「信長」が攻めてくるんですが
だいたい南側から来るんですね、法園寺の方から攻めてきてて
信長が本陣を築いたのが五月山なんです、
五月山の上側から見ると今でもそうですけど
まるでお城が丸見えなんですね、城の中が見えるという、
それが池田の城の弱点なんです。
池田の城はそうゆう東側と北側が丸見えになるという弱点がありました。

↓現在の九頭龍稲荷

南側にずっと敵が押し寄せてきた時に新しい戦国のお城もそうですけど
鉤の手というのですけど「くの字型」に曲げて敵が攻めて来たときに
角でやっつけるというか、それも今でもそのまま残っているんですが
1メーターちょいぐらいの道幅の道が、
なかなか簡単にはそうお城の中に入れないという仕組みになっています。

今の城山町がそのまま残っています。ちょうど石段のとこに通じてますが
城山会館というのがあってそこからちょっと出たら池田城の西門に通じる
昔の鉤の手の面影を残した池田の昔の趣が感じられる場所になっています。


鉤の手になったあの城山町、あそこは甲ケ谷(こかだに)と言って、
甲賀の忍者の・・・

ほんまは甲賀谷なんですけど池田では甲とケと谷と書いてこかだにというふうに読んで、なんでかというと、そこに甲賀の忍者の話が出てくるのですが

池田氏に雇われてきて甲賀の忍者が何人か集団で池田氏に仕えていて
その中の一人に「甲賀谷又右衛門正長」という名前の人が出てきますが
この人が非常にまぁ言えば池田の城主に可愛がられるというかその能力を買われて
出世するんですね、側近といいますかその後の江戸時代の老中といいますか
そうゆう格にまで出世をしまして、今の城山町のあたり、たぶん城山会館の辺りだと思いますが、屋敷を賜ります、
そうゆうところからあそこは甲ケ谷という地名になったと。

同じように池田の城主に使えていて、老中のような格の人で大西という人の
屋敷があったので、大西町という町名がありました。
ちょうど弘誓寺の向かい側、出雲大社の所が大西という老中の屋敷がありました。
その大西町という名前も今はなくなってしまいましたけど。
そうゆうことで、今日はちょっと脱線するんですが、忍者のことでおもしろいので
話をしてみたいと思います。

こないだもちょっと話をしましたが、
五月山の児童公園に「忍者の砦」というのができまして
市役所の公園課に行って「なんであそこに忍者の砦つくったん?」いうて
聞きに行ってみたら「別に意味ないんですわ」いうて、
ああゆう公園とか企画する業者がいろいろ持ってきて、
これどうですか?って言ったのが忍者の砦で、なんちゅうことなくそんなことで
出来たのがあの忍者の砦なんで「それはないやろう」と向こうの課長に
実は池田には、こうこうで忍者とのかかわりがあるんですよと説明したら
「それはいい話を聞かしてもらいました」ということで要するに遊園地ではなくて
池田にはそうゆう甲賀忍者の云われがあったんですよということで、
PRして下さいとお願いをしてきたんですけど(笑)

↓五月山公園にある忍者の砦

忍者というのはそもそも何なのかというと
皆さんが持つておられる忍者のイメージというのは
江戸時代以降に非常にフィクションというか、
まるで魔術師か人間離れしたかのような映画とかアニメみたいに
化けもんのようなイメージになってしまってますが、
そんなことはできないので、透明人間とかね、そうゆうことにはならないので、
しかしそうゆう忍者というのは生まれた時から忍者の訓練をするので
常人では考えられないような、体力や知力を持ったのが忍者やと思うのですが

そもそも、忍者というのは、
忍者という名前で呼ばれていたのかどうかわからないですが
文献によると平安時代の終わりの壬申の乱というのがあって、天武天皇の。
忍者を使ってクーデターを起こしたという記録があります。
ずいぶんまぁ昔から忍者として呼んだか名前はわからないですが、
職種、人種としていました。

全国的とうか、近畿各地にそうゆう人はおったんですね、
その中で特に有名になったのが伊賀、甲賀なんですね、
伊賀というのは三重県上野市ですが、芭蕉の出生地ということでも
有名ですが、だから芭蕉も忍者やったんじゃないかと言われているんですが

「奥の細道」の記録を見ると、たどっていくと
とても常人では歩くスピードが早いのでこれはもう忍者やでと
そうゆう話もあるんですけど、上野市には忍者博物館というのがありますが

甲賀というのは信楽で有名な滋賀県ですが、
信楽を中心とした南部で甲賀でここが地形からして非常に高い山はないのですが、
低い山谷という地形がありまして、畑はできても
お米を作るような広いとこはないので、ほとんどお米を作れないという場所で
そんなことで、そこには他の国のように領主がおって、
そしてその領主が納めていくという、そうゆうふうには、
地形のこともあってならないんですね、

小さい豪族、それが何十人と、伊賀・甲賀におりまして
そして共和制というのかね合議制というのですか
それぞれがお山の大将で、それこそ一山一山にそうゆう豪族がいてまして、
それが頭領になって何かあれば、集合してそこで合議をして決めたことを
みんなで協力してやる、特に外敵が攻めて来たときには一致協力して一つのもう、
領国のような形で外敵に対して防ぐというかそうゆう人間ばかりが集まっているので、どうしても自衛組織というのが必要なんです。
だから一人一人が、
そうゆう武器を持ち、そして特技を持ってないと、
その合議制の時事が維持できないというそうゆうことから
忍術の技術が発達していくんですが、その技術のもとが何かと言いますと修験道、
山伏が出てきます。

これは山伏というのはもっと古くからあるんですが
山人(さんじん)とか中国から入ってきた道教とか、
神仙思想とかそうゆう思想から生まれてきた、中国から入ってきた思想、
そういったものをもって、山岳宗教というのが発達してきまして、
そこに修験道という一つの宗教といえるかどうかですが
そうゆう山岳を神とするというか、そして山へ入って体を鍛えて、
そして修行していくという、
そうゆう山伏というそういったものがたくさん、これは日本全国に、
霊山とか名山とか言われてる山は大抵もう山伏からの白山もそうですしね、
名山と言われている山には全部もう、山伏、修験道があります。

一番有名なのが奈良の葛城山ですね、
ここはちょっと千メーター足らずの山ですが、
今ちょうどツツジの名所でたくさん行かれるそうですが、
そこの出身で、役小角(えんのおずぬ)っていう人間がいまして、
伝説上の人間とも言われているんですが、
これが修験道の元祖というか言われていてまして、紀伊山脈全部を踏破しまして、

もちろん箕面にも入ってきてまして、今の箕面の滝のすぐ横で行をして、
そこで神徳を得、あそこに祠を建てられたんですが、その祠を移されたのが今の
竜安寺という滝道のかかりに左側にありますが、これは役小角が開いた
お寺ということになってまして、
そんなことであの箕面の山から池田にも来てたはず

そういったのがたくさん修験道の人が全国各地におってお互いに争うというか
どんなことをしてたかというと山伏が自分の修行をするんですが
修行を通じて祈祷をしたり、まぁ呪術とかいうんですが
加持祈祷と言う言葉もありますが病気とか災害をね

昔は特に神頼みやからね、そうゆう祈祷師として災いを取り除くということで
それの報酬をもらう、それから山伏の属している神社のお札を売り歩くという
そうゆうことをやっていて、その縄張り、その札を配る、売る、ですね、
縄張り争いが絶えなかったんですね、

これはずっと下っての話ですが、
家康がそうゆう状況になっていたので、これをなんとかせなあかんということで、
家康がそういった山伏、修験道の人達を「醍醐寺派」というのと
「聖護院派」という二つに統一するんですね、

「醍醐寺派」は真言宗でして京都の醍醐寺ありますね、
あそこの「醍醐寺派」、これを「当山派」というんですけど、
京都の聖護院、八つ橋で有名ですけど聖護院、あそこを中心とした修験者
それを「本山派」といいます。その二派に統一というか、
そうゆうふうに家康が江戸時代のはじめに家康がそうゆうようなことで、

池田ではそんなので今の建石町、あそこは京都の愛宕神社に属している、
まぁ愛宕神社のちょっと下に白雲時というお寺があるんですが、
そのお寺を中心とした修験者、これが聖護院派なんですね、比叡山も含めて。
それに属していて、そこの行者、山伏が池田では建石町を中心に活動していた。

それから今の甲ケ谷ですが城山町、そちらは「醍醐寺派」の方でして、
これは「当山派」なんですがそれの修験道の人達が活動していて、
池田でも「当山派」と「本山派」の権力争いがエリア争いがずっとあって

がんがら火でもちょっと仲悪い状態が今だに続いていますが、
その元はそのへんからあるということで・・・

↓池田で毎年8月24日に開催される「がんがら火祭」

池田の城山町は一応「当山派」に属してはおるんですが、
そしてまぁ愛宕神社のお札を売ってるわけですが、
池田の愛宕さんは京都の愛宕さんと違うんやと、
うちの愛宕さんはそれこそ弥生時代からずつとようするに、
五月山ではそうゆう火の祭司をずっと続けてきたんやと

五月山の今の大廣寺がありますけれども、
あのあたりに「上仙寺」というお寺がありまして随分大きなお寺で
その中の一つにごくごく小さい愛宕の祠があって、
他の建物は全部すたれてなくなって愛宕社の祠だけが残った。

↓現在の大廣寺


うちの城山の人が言うには、今の愛宕神社の宮司さんも言うんやけど
京都の愛宕さんとは違うんやと、もっと古いんやと。
もう京都の愛宕さんよりもっともっと古いんやと。
そうゆうことを今もいわはりますけど、
ちょっとまぁ、京都の愛宕さんとは違うんやでという。

そうゆう修験道の人の持っている特技、
そういったものをいろんな忍術でよく、これをやりますね
これをやったり九字を切ったり、九つの字を書いてこうやるんですね、
これ九字を切るといいます。

九字を切る、それから印を切る、これが一つの呪法という、
こうゆうことをして祈祷をやる、まぁそうゆう術といいますか、
そうゆうのも忍者が修験道のそうゆう古来から伝えてきた
そうゆう技術を忍者が学ぶんですね、

そしてそれを学ぶと同時に自分らは自分らでまたその武術を
その修験道の技術や技能というものプラス武道、
そういったものを取り入れて一つの忍法というか忍術というものを作り上げていく。

修験道から離れて忍者という、それの集大成が甲賀の一番有名なのが、
江戸時代に出版されているのでその前から出来ていると思いますが
「萬川集海」というこれは忍法の兵法書、
これが基礎になってみんながやってる忍法、忍術というのは、
萬川集海の兵法書が基礎になって

それをいろいろアレンジされて、
忍者のイメージというのが出来上がってきているという。
で、そこにも書いておきましたが、忍者というのは
「しのび」とか「らっぱ」とか「おんみつ」とか「おにわばん」とかですね、
「つっぱ」とか「くさのもん」とか
そうゆう名前でいろいろ呼ばれてきてるんですが、組織というものがありまして
忍者の中に親玉がおりまして、
上の忍者「上人」中の忍者「中人」「下人」という
まだその下に戦になったときにかり出される「合戦人」百姓やってる人、

そうゆう伊賀・甲賀の百姓はただの百姓ではなくて
平時は百姓をやってますけど全部技術を訓練されて、
いざという時はすぐ戦に出ていけるという組織ができあがっていて
「上人」から「下人」は忍者専門ですから出稼ぎに行ったり、
百姓やそんなんはしませんから一生懸命忍法を鍛えて、
あちこちの領主に雇われて、伊賀や甲賀では食っていけないんですね

特に次男や三男はぜんぜん食べていけないので、
忍術を学んで各国の領主にお金で雇われて、
しのびを戦の時の情報集めとか城に入って放火をしたり、
そうゆう影の働きを得意としてやっていたという、
中にはもうその領主に雇われてしまって、完全に仕えてしまって

池田ではさっきのあの老中まで出世するそうゆう忍者も出てくるのですが、
だいたいは出稼ぎで、絶対にお金で雇われるので両面スパイというか、
どっちでもいいんですわ、どっちが勝ってもいいので、
自分はお金さえもらえればいいのでもういつでも寝返るというか、
お金さえもらったらいいという、なんでもするよという。

しかし忍者の中の掟というのは厳しいものがって、
仮に甲賀から逃げ出したり、命令を聞かなかったり、そ
うゆうことがあった場合は仲間が全部殺すんですね、
親子であろうが兄弟であろうがそれはもう全然関係なしで、
殺してしまうという。掟に背いたものは全部殺してしまうという、
そうゆうクールな気持ちを持っていないと忍者はできないんですね

今日はこんなところのお話しですが、
お時間がありましたら忍者のことも学べておもしろい
「梟の城」これ司馬遼太郎、それから「しのびのはた」これ池波正太郎
この二つの本がおすすめです。
文学的にも立派ですし、忍者のことがとてもよくわかりますので
是非文庫本で出てますので読んで見られたらいいかなと。
これは今のアニメみたいになってますが、甲賀忍法帳というのがありまして
これは山田風太郎、この三冊があります。
そんなのをお読みいただきましたらおもしろいのではないかなと。



↓がんがら火祭でテレビ中継をする中岡さん


中岡嘉弘さんの著書

中岡嘉弘さんのブログ
北摂池田の郷土研究

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作者/篠原利香 監修/中岡嘉弘

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