大正時代の増本病院/北村儀三郎/がんがら新聞/池田市

がんがら新聞を見ていると、知らないことだらけで
時間が経つのを忘れてしまいます(#^_^#)
今日もがんがら新聞からのご紹介です。

元石橋小学校校長の中島正雄氏が書かれた
「わたしの生まれた町池田」から
増本病院(大正10-昭和8年)のこと
町一番のモダンな病院だった
という記事ですが、大正時代、今の市役所のところに
こんな病院があったことを聞いたことがなく
ネットで検索してもぜんぜん出てきませんでした。

石橋小学校卒業の有名人には
女優の田中裕子さん、歌手の島倉千代子さんがおられます。
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増本病院(大正10-昭和8年)のこと
町一番のモダンな病院だった

池田に増本病院というのがあった。
現在の市役所の位置で正門は池田警察の向いにあったという。

ヒマラヤ杉のそびえる立派な前庭があり、
その奥に洋風のしゃれた建物が静かなたたずまいを見せていた。
当時は、池田警察署の角まで池田小学校の敷地で、
古い木造校舎が建っていたから、
池田で一番モダンな病院の建物と校舎は好対象であった。

副院長小山彰氏のひとり息子、敏夫君とは小学校同級生だったので、
病院の東側にある副院長公舎へ雑木林をぬけてよく遊びに行った。

彼の家にはピアノがあった。
おやつは私たちがめったに食べられないケーキと紅茶が出た。

レースのテーブルクロスが掛かった机と椅子が珍しく、
まるで別世界に居る感じがしたものだ。
その上、私が学校の先生にしか弾けないと思っていたピアノを
彼はやすやすと演奏して見せた。
これはまさに驚異であった。
彼は惜しいことに中学に行って間もなく早逝した。

池田医師会史によると、増本病院は酒造家の北村儀三郎氏が創設した産婦人科病院で、創設は大正10年のことだという。
敷地1000坪、手術室、分娩室、レントゲン室、時の最新の設備と、30床の病室をもった近代的病院で、その立派な建物は阪急電車から望見出来たそうな。

大正14年、内科、昭和7年、耳鼻科をを併設したが結局は人口1万5千たらずの小さな町のこと、アイデアの新しさに経営が伴わず、北村氏の没後、種々紛叫の末、昭和8年2月末に閉院したと記録されている。
その後、新池田町役場となる。


北村儀三郎氏は北村一族の中でも一風変わった人物で、
しかも、非常に新しい進んだ考え方を持った事業家であったようだ。
そのアイデアがあまりにも時代を先取りし、現実に合わなかったので生前に行った事業が大成しなかったのではあるまいか。

増本病院の二代目内科医は西井長一郎氏であった。
私は子供の頃病弱であり、室町で開院された西井先生にたびたびお世話になった。

池田の人でお会いして全く頭のあがらない人の一人である。
「猶存」と号して水墨をよくされる。
私の絵など先生の前にだせるようなものではない。

増本病院の跡は技芸女学校となり、戦後は北中の前身である城南中学が建ち、
そして大阪府豊能地方事務所となった。

北豊島公民館(前の木造の建物)は増本病院の建物の一部を移築したものと聞いたが、さだかではない。

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池田の昭和初期の地図を見てみると
増本病院がのっていた。

↓大正10年に発行された池田町便覧より

がんがら新聞は解散しており、中島正雄氏は
連絡先がわからないため、許可はいただいておりませんので
何かございましたら「お問い合わせ」からご連絡ください。

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