おかげ踊りの流行は民衆のエネルギー/60年に一度の流行/池田市の歴史

池田についての文献を読んでいると
よく出てくる「おかげ踊り」いったいこれは何なんだ?と
調べてみることにしました(^^)

文政13年1830年
天保の飢饉で一揆などの騒動が起った時期です。
池田では大根屋小右衛門が活躍した頃ですが
おかげ参りとおかげ踊りが大流行しました( ・◡・ )♫•*¨*•.¸¸♪

明和8年1771年の大流行以来60年目にあたり、
60年に一度の不思議な流行と言われています。


伊勢神宮へ参詣するおかげ参りは全国各地から人々が訪れました。
道中手形が不要で道筋には銭や食べ物の施行もあって
神のお陰で伊勢参拝ができるのでお陰参りといいました。
池田では地域ごとに伊勢講が組織されていて
定期的に伊勢参宮が行われていましたそうですよ

伊勢参りを終えて帰ってくると坂迎えといって、
一行を村境まで迎えに行く儀礼が行われ、
これは町内あげての大きな行事となっていました。

一方おかげ踊りは実際に伊勢神宮に行かなくても、
自分の村やよその村へ踊りに行き
踊りに誘ったり、
踊りの輪を広げたりしました。
よその村へ踊りに行くことを、「踊り込みをかける」とか言ったそうです。


天保2年1831年頃
西国街道を西進してきたおかげ踊りの流行は池田の村々に広がりました。

西市場では6月に入り踊り始めました。
師匠を招いて稽古をし、十二神社で踊ったあと他村へ躍り込みました。

大きな貨幣を掲げて、太鼓や笛を鳴らし、揃いの浴衣を着て杓や扇子を手に踊るという華やかなものでした。

西畑村でも弁当持ちで近在に7日間踊り込みに出かけました。
親類縁故を頼って踊り回り、祝儀袋で畑天満宮に狛犬を奉納しています。

池田村では町内で踊ったり町外へ踊りに出たり神社へ百燈を献上しました。
↓こちら畑天満宮

「ええじゃないか」も池田ではおかげ踊りとして記録されている。
衣装代などに多額の費用がかかったり踊りに来られると祝儀や飲食を提供したので領主は禁止令を出して、おかげ踊りの取り締まりを図りましたが
民衆達の熱狂を前にほとんど効果はなく、夜間に踊ったりもしたといます。

取り締まり人が来ると自粛されるが7~10日のちに再び踊り出しました。
おかげ踊りは豊作を招くという噂が流れたということもあり神事でもあったため取り締まりをする対象ではないと論理があったようです。

参考文献/池田市史、池田学講座

スポンサーリンク
Sponsored Link
Sponsored Link

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする