室町住宅は宝塚歌劇の生みの親でありアイデアマンである
小林一三さんの発案により100年以上前に日本で初めて電鉄が開発を手がけた郊外型分譲住宅です。
明治時代、大阪は工業化が進んで「煙の都」と言われるほど
環境が悪化しており、子育てや生活をできる環境ではなく
マイホームを持つこともできませんでした。
そこに目をつけた箕面有馬電気軌道の専務取締役であった小林一三は、
緑に囲まれ環境良く交通便利な池田を裕福な大企業のサラリーマンを対象とした住宅地にしようと計画を進めたのです(^^)/
都会でも田舎でもない、この郊外という居住地は「模範的郊外生活」として
新しい生活スタイルとなりました。
当時の奥様達の憧れだったのかもしれませんね(^^)
家族構成は夫婦と子供達、女中さんでした。
女中さんはどこの家も雇っていて「ねーや」よ呼ばれており、
だいたい縁故で雇いましたが能勢からも行儀見習いのために来ることがありました。女中さんの慰労会もあったそうです。
この室町住宅の奥様達は紋付羽織を着ていて目立つ存在と評判で目を惹く存在でした。
明治42年(安藤百福さん誕生の年)
有馬箕面電気軌道は呉服神社周辺に広がる2万7千坪の用地を買収して
郊外型住宅の開発に着手する
明治43年
有馬箕面電気軌道の開通に合わせて販売開始
桜井住宅の開発
大正3年
豊中住宅の開発
大正8年
室町婦人会ができる
最初は有志が聖書の講義などを開いているうちに
誘い合わせるかたちで婦人会がでました。
販売区間は1区間を100坪を目安とし、
「頭金として売値の2割、残りを10年間月賦で払い込むと住宅の所有権を移転させる」月賦販売という斬新な販売方法を導入。
広い庭や日当たり、風通りのよい間取りといった設備だけではなく
住民同士の親睦や娯楽を目的とした倶楽部を設置したり、
生活用品の購買組合を設けることもした。
室町住宅販売のパンフレットには呉服神社境内の一部を公園にして、
隅に購買組合店舗と倶楽部を設置し、一階には玉突き台、
二階には36畳の大広間を造り、電話をとりつけたとされています。
↓現在の室町会館です。
しかし、室町は池田町の中心から近く、買い物にも不自由がなかったため
あまり利用されずに閉鎖されました。
住宅地販売と観光宣伝のために大正2年の7月に箕面電軌から
月刊雑誌「山容水態」が発刊されました。
創刊号には箕面の滝が口絵となり、室町住宅と桜井住宅地の売り出し広告が記載され、さらに郊外生活のすすめや、理想の住宅、購入者のインタビューなどの記事が掲載されます。
その後、室町住宅の開発に触発されて新たな資本による満寿美住宅の開発がはじまります。
室町住宅の東南に位置し、総面積3万坪を対象にして大正7年に販売が開始されました。
現在の様子↓
観光MAPでは↓このように記載されています(^^)
文化人達も多く生活していました。
日本画家の須磨対水は大正3年から15年まで四番町北に住んでいた
鳩ぽっぽの作詞者である東くめは大正6年に二番町南に引っ越して以来この地にとどまりました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。