明治時代
池田市に「めん茂楼」という大きな料理屋さんがありました。
(旧加島銀行の裏手あたり)
そこの娘のはなさんが、あのシーボルト次男のハインリッヒシーボルトに
見初められて恋に落ち、
明治18年に大阪府知事の建野郷三氏の媒酌で結婚しました。
それから女児が生まれましたが、残念ことに早くに亡くなり、
ハインリッヒは祖国に帰ることになった時、
父母ははなさんが遠くに離れることを拒み、
はなさん自身も両親に背くことができなかったため、
彼についていくことができませんでした。
いつか必ず戻ってくると信じ、待っていましたが
亡くなったことだけが知らされ悲嘆にくれたはなさんは
世をはかなみ、禅師について道を求めた。
五月山の大廣寺にははなさんの家(細原家)のお墓があり、
そこに宝篋印塔を建てて御経を埋め、
宝篋印塔の石のまわりには一部始終
ハインリッヒシーボルトのことが刻まれています。
その横に自分の墓を建てて、今は寄り添うように眠っているそうです。
このような話が大阪府池田市に残っており、語り継がれているのですが
いろいろと調べましたらびっくりすることがわかりました。
実はハインリッヒシーボルトには東京にも妻がいて、
その名は同じくはなさん。どうやらそちらが本妻のようなのです。
子孫がシーボルト協会というのを運営していて、
今も研究がなされているとか。
私はその日本シーボルト協会に問い合わせてみたところ・・・
以前もお問い合わせが御座いまして
幹事の先生方よりお伺いをし、お答えをさせて頂きました。
そのお答えによりますと、その時期その場所にハインリッヒ・シーボルトがいたという事実はなく結果として真実とは考え難いとのことです。
その後も多くの研究が進み、シーボルト研究は父のみならずアレキサンデル、ハインリッヒの兄弟に関しての研究も発展しておりますが本件については話題に上がることもなく荒唐無稽なものという判断の様で御座います。
ということでした。
めんも楼のはなさんは、ハインリッヒシーボルトと結婚したというのが本当でないのならなぜあのような宝篋印塔を建てたのか不思議でなりません。
そこには自分が死んだあとも、自分が彼の妻であったということを忘れられたくないというものすごい執念を感じます。
このことがずっと気になっている中、自然にできたのが「風恋楼」ふうれんおう
めんも坂のさくら吹雪の中を歩く、はなさんとハインリッヒシーボルトをイメージしてできた曲です。
最初はギターで作りましたが、ハープの方が合うような気がしました。
細原はなさんが本当にハインリッヒシーボルトと結婚したのか
何のために宝篋印塔が建てられたのか、研究が進むことを祈ります。
めん茂楼のはなさんに捧げる「風恋楼」細原はな/ハインリッヒシーボルト/明治の恋/大阪府池田市/大廣寺

コメント
すばらしい歌ですねー。
シーボルトの話は、梅阪さんからも聞いていました。
今回、篠原さんのグログを読ませていただき、理解が深まりました。
とはいえ謎に包まれている話であり、なんとか解明したいものですね。
ところで、この歌をFacebookなどで拡散していいでしょうか?