明治時代、池田に「めん茂楼」という料理旅館があって
そこに細原はなさんという娘さんがいました。
昭和初期の地図にもめん茂楼が載ってました↓
そのめん茂楼は洋食を出したり、結婚式をしたりする、
当時では格式のある料理旅館だったようで、
当時の大阪府知事が外国人のお客様を連れて
ご接待に訪れたりしていたそうなんです。
こちらはめん茂楼のパンフレット↓
その中に、あの有名なシーボルトの次男さんである
ハインリッヒ・フォン・シーボルトがいたそうで、
そのハインリッヒがなんと!
めん茂楼の娘のはなさんと恋に落ち、
その後大阪府知事の媒酌で結婚し、
女児が生まれたが早くに亡くなったというのです。
10年以上の結婚生活が続き、
シーボルトが故国へ帰国することになった時
はなさんは、夫について外国に行くのか、離ればなれになるのか迷いましたしかし、泣く泣く、別れる道を選んだそうです。
またいつの日か必ず会うことができると信じていました。
ところが、ハインリッヒは病気で亡くなってしまい、
はなさんと二度と再会することはありませんでした。
はなさんはとても悲しみ、近くの大廣寺(細原家の菩提寺)に帰依して
尼さんになり、シーボルト家のために宝篋印塔を建てて、
その石にハインリッヒのことと、自分は妻なのだということを刻んで書き、自分もその横に墓を建てて今は寄り添うように眠っている・・・・と。
細原はなさんの心情を詩に綴り、曲を作りました♬☻☻♫•*¨*•.¸
池田郷土史学会の定例会で発表させていただきました。
なんて悲しくてせつないお話しなんだろうと思っていろいろ調べていると
「えっ!!!?」
と大きな声で思わず叫んでしまった事実が発覚しました。
なんとこのハインリッヒは、東京の岩本はなさんとも結婚していたのです。
はぁ?ですよね。これ同じはなさんだけに非常にややこしい話なんですが
東京の岩本はなさんの間には子供が3人生まれていて、
写真とか手紙とか色々残っていてどう見ても東京の方が本妻ぽいのです。
日本シーボルト協会というのがあって、
東京のはなさんの子孫の方が運営されていて、
いろいろと研究が進んでいるのですが、
大阪のはなさんのことは一切触れられていないのです。
もう、頭の中がこんがらがって、
日本シーボルト協会にメールで質問してみましたら・・・
以前もお問い合わせが御座いまして
幹事の先生方よりお伺いをし、お答えをさせて頂きました。
そのお答えによりますと、その時期その場所にハインリッヒ・シーボルトがいたという事実はなく結果として真実とは考え難いとのことです。
その後も多くの研究が進み、シーボルト研究は父のみならずアレキサンデル、ハインリッヒの兄弟に関しての研究も発展しておりますが本件については話題に上がることもなく荒唐無稽なものという判断の様で御座います。
というお返事が帰ってきました。
これは一体どうゆうことなのか、不思議で仕方なく
図書館で本をいろいろと読んでみたりしました。
すると、いつのものかわかりませんが古い新聞の記事の中に
「シーボルトの二男に日本人妻」という記事があって
そこには、大阪のはなさんの弟の子孫が写真や手紙を持っていると書かれており、東大教授のベルツの夫人らと交流があって東京で外交官夫人として華やかな生活をした時期もあると書かれていますが・・・
この記事は大阪のはなさんと東京のはなさんがごっちゃになってて
よけいわけがわからなくなっています。
しかもベルツ教授の奥さんも日本人で名前がはなさん。
ふーむ、この時代ははなさんが多かったのでしょうか。
しかし私が思うところでは、
どうやら東京のはなさんがハインリツヒの妻として本筋かなと思いますし、どっから見てもそうなんですが・・・・
じゃぁ大阪のはなさんは???どうなるの?となるわけです。
私なりに想像力を膨らませて考えてみると
●第二婦人であった
●ハインリッヒの名を語る偽物外人と結婚した
●単なる浮気
どれにしても、はなさん可愛そうなんですが
それにしても宝篋印塔に刻んだ文はすごいですよ
原文とは違いますが、簡単に訳すと次の通りです。
私が一字一字心を込めて御経を写し大広寺に塔を建てて、
その地中に埋めたの真の心で
亡き夫、ハインリッヒシーボルト一族の冥福のためにしたものです。
ハインリッヒはドイツの貴族シーボルト先生の第二子でシーボルト先生は早く我が国に来られ、事業功績は世人の知るところで、
それは長崎公園の碑に認めてある
ハインリッヒも我が国に来て5年に東京オーストリア公使館書記官となった。
30年オーストリア上海総領事に任ぜられたが41年に病気のため没した。
明治18年大阪府知事建野氏の媒酌に預かってハインリッヒと結婚、
一女生まれるも不幸にして早世した。ハインリッヒが故国に帰る事となったが父母は私が遠く離れることを欲しなかった。私もまた父母に背くことが忍びなかったのでハインリッヒが去ることを止めず時期を待つことにしたが生別がついに死別となった。私は切に厭世となったが帰依し誠心をもって道を求める。
池田の史跡 池田市教育委員会編集本より↓画は福西茂氏
このようなことが宝篋印塔の石に刻まれているのです。
シーボルト家の冥福を祈ってと最初に書かれていますが
私の感じたことですが、これはものすごい執念で
「私がシーボルトの妻であったことを忘れないで!」
と訴えているように思えるのです。
ある意味ゾッとするくらいのものです。
これは一体どうゆうことなのでしょう。
はなさんがハインリッヒと恋に落ちたのは本当のことなのか?
石に思いを刻むってものすごい執念ですよね、
1928年といえば昭和3年ですよ。
ハインリッヒは日本ですごい活躍をしており、
かなり忙しい日々をおくっていたと思われるので、
大阪のはなさんと11年の幸せな結婚生活をしたというのは
あり得ないことかなと思います。
と同時に、関西へ来たことがあるのかどうかも疑問です。
他の資料には、ハインリッヒと大阪のはなさんの出会いは、
池田のめん茂楼ではなくて、
箕面の滝道にできためん茂楼の支店であると
書かれていることが多いのですが
滝道にめん茂楼ができたのは1908年なので、ずっとずっと後になるので
あり得ないことかと思います。
しかし、その滝道とは別にもっと前から箕面に支店があったということを
言われる方もおられます、、、
故国へ帰ったハインリッヒは病気だったようで、
治療をしながら他の女性と結婚し、亡くなりました。
池田の歴史についてこと細かく書いてある「池田市史」には細原はなさんのことが一切出てきません。
はなさんのことをこれからも調べていきたいと思います。
何かご存じのことがありましたら教えてください(^_^)/
わかっていることだけ、まとめてみました↓
ハインリッヒシーボルト | 東京/岩本はな | 大阪/細原はな | めんも楼 | |
1852 | 誕生 | |||
1866 | 父が死亡 | 誕生 | ||
1869 | 初来日 | |||
1872 | オーストリア政府通訳として日本との条約に尽力 結婚 | 結婚 | ||
1873 | トリエステに向かう ウィン万国博覧会 日本へ帰国 | 男の子を授かる 父が亡くなる 生後4ヶ月で男の子が亡くなる | ||
1876 | 邸宅が火事 | 開業 | ||
1877 | 母の死亡 兄の代理で大蔵省へ | 男の子を授かる (オットー) | ||
1878 | 天皇陛下より賞 | めんも坂改修 | ||
1879 | 女の子を授かる (レン) | |||
1881 | オーストリア国籍取得 書記官に任命される 天皇陛下より賞 | |||
1882 | 条約改正会議に参加 日中授章を賜わる | |||
1885 | 結婚 | 結婚(はな20歳) | ||
1887 | 墺洪代理行使の任 | |||
1893 | 墺洪横浜代理領事 公使館名誉書記官 一等官房書記官 | |||
1895 | 上海に赴任 病気が重くなる | |||
1896 | 天皇陛下に謁見 治療のため日本を離れる | |||
1897 | ロンドン経由でヴィルツブルグへ戻る | |||
1898 | チロル地方に城を購入し行き来する | 箕面公園が公園地になる。 多くの料亭ができる | ||
1899 | 一時退職を願い出る | 母死亡 | ||
1902 | オットー死亡 | |||
1904 | 父死亡 | |||
1907 | 大病するが一時回復 | 細原茂雄ら本検を拡張し呉服検合資会社を設立、料理屋組合「呉里会」を組織 | ||
1908 | 重病となる 56歳で死亡 | この頃にめん茂楼の滝道店が出来た? | ||
1924 |
| 箕面公園大規模整備 | ||
1926 | 呉秀三が「シーボルト先生其生涯及功業」第二版を発行 | |||
1928 |
| この頃出家 宝篋印塔を建てる | ||
1936 |
| 86歳で死亡 | ||
1938 |
| 72歳で死亡 | ||
1940 |
| 戦時体制の波により廃業 | ||
1979 |
| 取り壊しのため襖、庭石、燈籠などの即売会を行われる |