資料を整理していて
みつけた旧町家の写真、、、
小さくだけどバッチリ「旅館 富士市」と看板が出ている。
場所は本町にありました。
これがあの噂に聞いていた富士市楼の姿。
昭和初期の地図にものってました。
この富士市楼の藤本由松氏が
めん茂楼の細原茂兵衛氏等と並び、
かなりのやり手商人だったようです。
池田の明治時代、旅館は、、、
古いところでは角糸楼
明治9年には、めん茂楼が開業し
明治10年にみやこ楼、
その後からも池田には、続々と旅館や料亭が建ち並んだそうです。
大阪府知事が外国人を招いて逗留(滞在)もしていました。
その中に、私が以前より調べている
ハインリッヒフォンシーボルトもいたのかもしれません、、、
細原はなさんは、めん茂楼の娘さんでした。
ハインリッヒ・フォン・シーボルトと細原はな
脚気に効くという噂もあって、療養のお客さんも
たくさん訪れていたようです。
明治31年、富士市楼の藤本由松氏が
個人経営で、本検という検番を設置。
※芸者と出先(待合・料理屋など)との連絡事務所のようなもの
芸妓20数名を抱え、各旅館の招きに応じていました。
その後、宝検・旭検・中検などの検番が設置されて
(この意味がわかりません、宝とか旭とか何でしょう?)
競争に乗り出してきますが、本検のみが隆盛をきわめます。
明治40年には
細原茂兵衛(めん茂楼)、藤井福松、小林治一(魚治楼)、藤本由松らが
相談して本検を拡張し、合資組織の呉服検合資会社としました。
北摂で唯一の花街と言われ、大変賑わっていたようです。
↓大正10年発行の池田町便覧の中にありました。
今日はこの富士市楼の写真を見ていただきたくて記事を更新しました♪
最後までご覧いただきましてありがとうございます。
参考資料/池田市史