木部の紀部神宮/菅原道真と直接のかかわり?/池田市


最近、紀部神宮について色々聞かれることが多かったので

今わかっていることをご紹介します♪
先日、郷土史学会で紀部神宮についての研究発表がありましたので
そこで勉強したことを中心に書いてみたいと思います(^^)/


いろんな呼び名があるのです。
木部天神宮、木部天満宮、紀部神社などなどですが・・・

現在の正式名称は「紀部神宮」です。
(神宮と称号がつく神社は全国でも珍しいそうです)
木部にあるから木部神宮じゃないの?と言う意見も耳にします。
木部の地名は紀部氏が由来とされているそうです。

日本最初の天皇、神武天皇が神武東征(日本神話)の際、
従者(お供をする者)として活躍した天道根命が紀の国造に任ぜられ
紀伊国で紀氏として名乗りました。

奈良時代 
紀氏の末裔になる紀部氏が木部に移住しました。
木(紀)の国と相通じる部(むら)からこの地を木部と名付け
紀部神宮を創建し祖神(クニツカミ)天道根命(アメノミチネノミコト)
を祀ったと言われています。
紀部氏の末裔は代々この地で暮らしてきたようです。

平安時代
 993年 主宰神 菅原道真 天道根命を祀ると記録
1039年 菅原道真公を祀る「木部天神宮」になっている

一説によると菅原道真公は紀氏とのつながりがあったと言われていますので

紀部神宮はもしかしたら菅原道真公と直接の関わりがなるのではと
考えられる可能性があるのではないか?と言われています。

歌人の紀貫之は紀部氏と深い関係があり池田に何度か訪れている
この頃に池田に何度か訪れて五月山の歌をよんでいます。
さつき山 樹の下やみに ともす燈は 鹿のたちとの しるべなりけり


安土桃山時代
織田信長による兵火で木部天神宮と隣にあった松梅寺が焼失
この兵火で木部天神宮の社殿、神宝、古記録も焼失

江戸時代
木部天神宮再建
境内は710坪 本殿、拝殿、絵馬所、社務所などがあった
1789~1843頃が最も繁栄しました。

明治5年
村社として下村五家官坐として京都・吉田殿の免許を受け神事を奉仕

明治41年
神饌弊帛料共神社(しんせんへいはくりょうきょう)に指定されるが
宮司不在時期があり古記録などが散逸

昭和26年
木部在住の方と他地域に移住した紀部氏末裔が古文献や記録を提出し
宗教法人法により「紀部神宮」を申請し認可される
同時に菅原道真公を祀る「木部天神宮」も存立

木部に今も続く下村家が紀部氏の末裔ではないかと言われている。

平成7年
阪神淡路大震災で大きな被害を受ける

現宮司は田口氏で、祖父が昭和初期から宮司に就任されたそうです。

紀部神宮を前に撮影した動画はこちら↓



2020年春撮影↓

木部の地名の由来としては諸説があります。
「クレハトリ・アヤハトリ」伝説に関連するものとしては
二人の織姫が猪名川から上陸して機織りをして河原で絹を広げて
さらしたので、「絹舒里」(きぬのべのさと)と呼ばれるようになり
それが転じて木部となったという説

木部に近い五月山は古くは「城辺山」と呼ばれており
そこから「木部」となったという説もあります。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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