伊丹駅から産業道路を南へ少し進み、伊丹3丁目の信号あたりに
「墨染寺」があるはずなのに、、、なのにぃ、、、
これがなかなかたどり着けず、ぐるぐるまわってやっと発見しました!
どうなっとんねーん!と叫びたくなるぐらい迷ったのよ(ココロの叫び)
住宅やスーパーがまわりにあってわかりにくかった(~o~)
古い商店街みたいなのがありましたが、味がある感じでしたよ
市場とか商店街とか大好きなので、迷った甲斐はありました♪
何事も無駄なことはないのだよ、ほほほ 🙂 と強がりの一つも言いたくなる晩夏
お寺や神社を探していると
いつもは遠くからでも、なんとなくあの辺だなとわかるのですが、、、
さてさて、今回ご紹介いたします、墨染寺さん
縦にスマートで個性的な感じの鐘門
墨染寺(ぼくせんじ)
曹洞宗 華岳山 かがくざん
1573-1591
華岳常盛の菩提のために、以前あった小庵を復興して開基しました。
(この、華岳常盛という方がどんな方なのかがさっぱりわかりません、、)
この頃に豊臣秀吉の家臣である大嶋久衞門の娘が
伊丹へ嫁いだ時に墨染薬師の象を持参して祀ったのが、
墨染寺と称する始まりと言われています。
1704-1711
本堂が上島家により再建され、釈迦牟尼如来像を本尊とし、曹洞宗となる
1995(平成7)
全面的に改築される
阪神大震災のあった年です、やはり伊丹はかなりの被害を受けています。
震災前はどんな姿をしたお寺だったのでしょうね、、、
山門は2階立ての、鐘楼と合体している鐘門です。
さっき立ち寄った正覚寺にも鐘門がありました♪
池田の熊のお墓がある弘誓寺の山門も鐘門です。
お寺に墓地があることには気付いていたのですが
暑くて☀フラフラしてたので、墓地まで見学する気力がなく、、、
後で気付いたのですが(後悔先に立たず)女郎塚があるそうです。
気付いていても、こうゆう悲しいものは写真には撮らなかったですが
お参りはしたかったです。
写真をご覧になりたい方はこちら→伊丹市文化財ボランティアの会
「女郎塚」
1579年、荒木村重の有岡城落城後、
織田信長は城中の婦女を集めて焚殺させました。
女郎塚はその供養塔で、表に草書体で「女郎塚」、
右側に天正7年己卯12月13日落城と刻まれています。
正和2年銘層塔 荒木村重の墓と伝えられた供養塔もあります。
こちら↓は何て書いてあるのか、わかりません(~o~)
華岳常盛の菩提のために開基したということなので
山号が華嶽山なんでしょうね。
山門前にお祀りされているのは、、、?
「鬼貫碑」「墨染寺」の碑や灯籠などの石造物があります。
山門をくぐり、中に入るとぐるりと建物が並んでいました。
1階は薬師堂で、2階は観音堂かな
決してせまい印象ではないのですが、限られた土地にうまく配置してる感じです。
伊丹は2階建てになってるお寺がけっこうあります、
これは池田では見られないことですね。
おそらくこちらが本堂↓
御本尊は薬師如来
江戸時代中期の俳諧師である上島鬼貫の故郷墓があります。
伊丹の酒造家・油屋の三男として生まれで16歳から西山宗因に俳諧を学びました。
本当の墓は大阪天王寺の鳳林寺にありますが、
墨染寺墓地にある子どもの永太郎の墓にも分骨か遺髪が納められているそうで
「親子墓」とも呼ばれています。
右側には飛騨の名工・谷口与鹿の墓があります。
(写真なくてごめんなさい(_ _))
境内から見た鐘門
山門の内側にあった石碑
このあたりは有岡城の上臈塚砦が築かれていたそうで
織田信長に攻められた時には一番最初に落ちた砦です。
発掘調査によって古墳を利用して築かれた砦であったことが判明していますが
現状遺構はないそうです。
タイトルに、墨染寺は荒木村重の供養塔、女郎塚、鬼貫親子の墓がある
と書いておりますが、そのどれも実際には見ておりませんのです、、、
またしても不完全燃焼な記事となりました(_ _)