旧いとや百貨店/糸屋(近代建築)/前田金吾/池田市サカエマチ商店街

いとや百貨店

昭和 5年10月に設立

呉服糸物商の前田松之助とその長男の金吾が
いとや百貨店を開業し、大阪初の郊外百貨店として営業しました。

資本金10万円の株式会社
敷地面積は135坪
鉄筋コンクリート造りの三階建てビル(前部)木造2階立て(後部)

社長  前田金吾(前田呉服店)
副社長 前田武夫
専務  川勝真次郎(津之新雑貨店)
取締役 西本巳之助(西本呉服店) 新宮直一(紅屋呉服店)

所在地

大阪府池田市栄本町1-8 
もともとは天理教の跡地で、
今の阪急池田駅からサカエマチ商店街を進んだところで
ローソンの向いあたり。

建物は現在も残っており、「池田さわやかビル」となって、
2020年まではエコミュージアムという施設でした。


呉商会からの非難

前田もほかの主要株主も呉商会会員だったため、
百貨店の開発計画が表に出ると他の会員達から非難が続出し
開業前には役員全員が同会を脱会することになりました。

呉商会とは・・・
呉服、小間物、雑貨、履物商などの、今で言う商店会組合のような組織で
毎年12月には誓文払いというバーゲンセールを開催していた。


前田金吾氏

明治29年(1896)元新町の呉服糸物商の家に生まれる
関西大学専門部卒業、父松之助の跡を継いで
大正14年(1925)はじめて池田町会議員に当選。
昭和10年(1935)新池田町が誕生し同年9月に町会議員選挙が行われ
はじめての町会で初代池田町長に選出される。


いとや百貨店ができた!

当時の商店街はおけ座、農具屋、酒蔵が建ち並ぶ中に
超近代的な百貨店が出現したものだから
田舎にどでかいイオンができる以上に驚いたことでしょう。

当時は箕面・豊中・川西・宝塚から多くのお客様が来られ、
池田は北摂を代表する繁華街となり、それで地名が栄町となったそうです。

店内にはショーウインドウが並び、
着物に紺の上っぱりの制服を着た女性があちこちに立っていたそうです。

こちらは↓店内見取り図です。
昭和初期の池田-街並みを復元して-という本の中で紹介されています。
図面提供は乾氏

初任給は15円
日給雇用者は1日60銭

年中無休 朝9時~夜9時まで(1,2月は7時閉店)

従業員 直営のみで男子10名、女子約30名

トイレは水洗で冷暖房なし
冬の暖房は各売り場に火鉢を置く、燃料はタドン

各売り場に日本金銭登録機のレジスターを置いて、
会計室で集中管理していました。


いとや百貨店のその後

昭和19年、大阪府が空襲による府庁の機能マヒを恐れて
地方に分散し、地方事務所を設置した。
鉄筋コンクリートの建物を強制没収したため
いとや百貨店もその犠牲になったと言われていますが
没収される前から閉店していたように思うと言われる方もおられます。

この百貨店は当時にはモダンで最先端だったから
話題にもなり、北摂の一帯からお客さんを集め、一時期は
一世を風靡したが、栄華はそんなに続かなかったということでしょうか。


外観の写真

外観の写真を撮ってきました。
どっしりしていてレトロな感じになっています。








がんがら新聞 中島正雄先生の記事

中島正雄先生が書いた、がんがら新聞の記事によると、、、

1階は呉服物で3階には食堂がありました。

街の雰囲気とはかけ離れていたので近寄りがたい雰囲気で
店内はいつも活気がなかった。
子供達の関心は屋上にあって、池田の町屋の屋根が一面に広がり
お寺の屋根が特に目立ったそうです。

しかし、店内は静まりかえり、店員の目が注がれる中
屋上への階段を上がるのは気が引けたそうです。
屋上では時々客寄せの芝居がありました。



参考文献
・昭和初期の池田 ・池田市史 ・がんがら新聞 

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