板垣退助の貴重写真が池田市で発見されていた!稻束家住宅でも一泊

板垣退助さんといえば、、、おひげが印象的ですが、、、
50銭と100円で2回もお札になったり
「板垣死すとも自由は死せず」という名言がある
誰もが知るすごい偉人なのですが、、、

そんなすごい人が明治時代に池田に来て一泊して帰ったというのを
なんとなく思い出したので、いろいろ調べてみました♬☻☻♫•*¨*•.¸

そしたら、そしたら、、、
池田市で貴重写真が発見されたということを、発見しました。
写真はそんなに多く残されていないので、
新聞に取り上げられたりしたそうです。

板垣退助(1837ー1919)

土佐藩の武士の長男として生まれました。四国の人です。
西郷隆盛らと行動を共にしています。
若い頃の板垣退助は、わんぱくでケンカばかりしていたそうですが
その頃に母から言われ、心にとめていた言葉は
「ケンカはしても弱いものいじめをするな、卑怯なことをして家の名を汚すな」

1882年 45歳の時
岐阜で演説中に刺客に襲われ「吾死するとも自由は死せん」と発言。
この言葉が「板垣死すとも自由は死せず」と言ったと伝わっています。
襲い掛かってきた相原尚褧に素手で抵抗し、左胸を刺されながらも当身をし、
さらにその数日後には演説のために大阪に出かけています

女性関係は調べてみるとおおらかで、、、
気に入った芸姑を権妻にしていたため、
四人の奥さんと約10人の子どもがいました。

特に三番目の板垣清子のことをとても愛して、
清子が亡くなった時(享年20)は泣いて布団をかぶってでてこなかったとか。
板垣退助の墓に寄り添うように建てられた墓は四番目の妻、板垣絹子の墓で
絹子は、女学校を設立するなど、女子の教育に取り組んでいたようです。

板垣退助が池田にやってきた!

さて、板垣退助が池田にやってきたのは明治27年2月8日(1894)
この頃は立憲自由党党首でした。

演説会は豊中市岡町で行われ
懇親会は池田で開催され大賑わいとなりました。

板垣退助は二人曳きの人力車に乗って大阪駅から岡町に向かいました。
途中の三国橋のあたりでは花火が上がり
池田の森秀次が騎馬で出迎え「国体精華」と書いた大きな旗を立てました。

板垣はその夜、
池田の稻束家で一泊して翌日、摂津鉄道池田駅から神戸へ向かいました。


このへんまで書いてて、いろいろググッてて「えっ!」と発見したのです


板垣退助の次男のお孫さんが池田市民だそうで
板垣退助の写真を所蔵していたことがわかりました。

30歳代の頃のものだと言われています。
髭の無い板垣退助の写真は現在7種類しか無く、
これまで知られていた6種類に加えて今回の写真が7種類目の写真。


詳しくはリンクフリーだそうですのでこちらをご覧ください

四国新聞でもとりあげられていますこちらをご覧ください
(こちらはスマホからは見れないかもです・・・)

↓こちらが池田に現存する稻束家住宅です。
呉春(絵師)頼陽、小林一三など
近世近代の人々が集い文化サロンのように使われたそうです。
ここに板垣退助が一泊しました(^^)/




今回は板垣退助さんのことを書いていて
偶然、池田市とのかかわりを発見できました♬☻☻♫•*¨*•.¸
最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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