正光寺は夜泣きの中納言石とエドワード・ハンターの娘の墓がある/池田市

池田市住吉にある正光寺をご紹介します 🙂 
東光山 正光寺 浄土真宗 本願寺派

このお寺は池田市民でも名前の知らない方が多いかと思いますが
「夜泣きの中納言石」や「エドワード・ハンター氏の娘さんの墓」があって
400年の歴史を持つお寺です。(^^)/

所在地

池田市住吉1-9-20

阪急石橋駅西口から国道171を西へ「中の島」バス亭の近く
住宅地なので、わかりにくいですよ、けっこう迷いました(@_@)

かつては「中之島」という地名でした。

開創

870年(貞観12)にその起源があり
慶長年間(1596-1615)本願寺12世「准如上人」の弟子「浄了」が建立。

慶長年間というと、豊臣秀吉が亡くなった後で
関ヶ原の戦い、大坂冬の陣と、日本の歴史が大きく揺れていた時代です。

もともと箕面川寄りにありましたが、享和3年(1803)洪水で流れてしまい
現在の地に移りました。
その後、無住の時や、廃寺になったこともありました。

本堂と山門とご本尊

本堂は大正3年改修、増築されました。

山門はもと麻田藩邸の陣屋門を移築したと言われています。

ご本尊は「阿弥陀如来立像」
脇に親鸞聖人絵像、蓮如上人、明如上人絵像が安置されている。
ほかには七高祖・聖徳太子絵像があります。





夜泣きの中納言石

門が閉まっていて中に入れなかったのです、、、
境内には二つの大きな石があるそうです。
ぱっと見は、なんの変哲もない普通の石だそうです。

「中納言菅原峰嗣休憩石」と横に書かれていて
”夜泣きの中納言石”と呼ばれています。

峰嗣という方は、平安時代(810年頃)に
淳和天皇の侍医として仕えていましたが

863年に退任、摂津権守となって、
この辺りに住んで薬草園を栽培していました。

そしていつもこの石に座って休憩していたそうです。
峰嗣は78歳で亡くなりました。

時は過ぎ、、、江戸時代の終わり頃のこと。
隣地の麻田藩主の青木氏が散策中にこの石をみつけて
庭石にしようと持ち帰ったところ
夜になるとこの石が「帰りたい、帰りたい」とすすり鳴いて、、、
藩主も怖い夢に悩まされ、、、

中之島の高札場の辻に持ち帰らせたところ、
石は泣き止んだと言われています。


石のことは忘れ去られようとしていたのですが、、、
大正14年2月22日、当時の正光寺住職が境内に移しました。
村の若い衆が念仏を唱えながら運びこんだと言います。

それから村人は毎年2月22日に「中納言祭」といって
この日は仕事を休んでこの石のまわりに集まり、
小石で鉦を叩くようにして石を叩き「南無阿弥陀仏」を唱えたり
飲食や談笑を楽しむという、のどかなお祭りだったそうです。

石の表面には小石で叩いたようなくぼみがあります。
現在はこのお祭りはなくなってしまっています。

池田の郷土史研究家の島田福雄先生が
「西国街道」という本の中で書いておられる内容を見ると
↓このように書かれています。
住職に峰嗣について聞いてみてもわからないと言うし
石のくぼみについても、子どものいたずらだと言う
浄土宗は偶像崇拝的な思想を認めないからであろうか。
石で叩いたという伝承は否定した。

エドワード・ハンター氏の娘さんの墓

市制50周年記念に池田教育委員会が出版した
「池田の史跡」という冊子の中に紹介されています。

福西茂さんが書かれた絵

エドワード・ハンター氏は日立造船の前身の大阪鉄工所創立者です。
明治14年に大阪市此花区で大阪鉄工所は創業しました。
民間人がおこした大阪での最初の重工業で、日清戦争で大きな利益をあげて
明治22年に桜島に移りました。

なぜ娘さんのお墓があるのかは資料がなく、わかりませんでした。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。
この近所には他にもお寺や史跡があり、ご紹介しております。

順正寺は500年の古刹「橋川三美先生頌徳之碑」「祝氏累世墓」池田市北轟木

参考文献/池田市史・西国街道・池田の史跡

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