池田山「峠の茶屋」の昔話し/池田市

昔は五月山を池田山とよんだそうですね(^^)/

今の「五月丘小学校」は、昭和35年に
接待池(せんだいけ)を埋めたてて、作られたのですが
その東150メートルのところ、ちょうど阪急バス五月丘停留所のあたりに
昭和6年頃まで「峠の茶屋」がありました。

接待池は横岡池とも呼ばれたそうです(^^)/
昔、大雨が降って水があふれ、建石町まで流れたこともあります。

このあたりかな↓先日ご紹介した横岡公園のすぐ近くですね

このお話しは1995年に発行された
「昭和初期の池田」の中に掲載されている、
Yさんの池田あれこれの中から抜粋しました。

峠の茶屋はトタン葺き平屋で8坪ぐらい
たった一件だけで、とても寂しい場所にあったそうです。

そこには目の不自由なおばあさんとおじいさんが住んでいて
峠を往き来する人々に、山から落ちてくる冷たい水をせき止めて冷やした
ラムネやミカン水、ところ天、駄菓子などを売っていました。

イノシシが出たり、墓地もある、この鬱蒼とした道を通るのは、
西国二十三番札所勝尾寺から二十四番札所中山寺を巡礼するお遍路さんと、秦村から綾羽町、新町や細河方面へ行く人だけでした。


旧池田の子ども達は沢ガニやシジミをとりに行くのですが
そこはまさしくラムネやミカン水が冷やしてある谷川で

ラムネは4銭、ミカン水は2銭でした。
子ども達はたいてい谷川の水で我慢するのですが、
時にはミカン水を失敬して知らん顔で帰ることもあった。

しかし茶店のおばあさんはどこからか見ていて、
盆と暮れにはきっちりと親のところに請求書が来て、
子ども達は親からこっぴどく叱られることとなりました。

さて、山の家のあたり、山際の道に石仏が二つありました。
一つは江戸時代の酒造家満願寺屋が建てたもので
もう一つは江戸期から続いた質屋の山岡氏が建てたものでした。

春になると、それぞれの家は二体の石仏の前で
道行く人にお茶と握り飯をふるまったといいます。
町の人は「いずれはあのような布施のできる身分にならなければ」
と話し合っていました。

宅地や道路の整備によってこの石仏は取り除かれてしまいました。
この他にも道標や石仏が都市開発の影響でなくなっていきました。

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