池田に立教舎を誕生させたのは黒松光仲(1749-1821)で、
江戸時代、ちょうど絵師の呉春と同じ頃になります。
立教舎とは、石門心学講社のことで
京都の思想家、石田梅厳(1685-1744)を開祖とする
倫理学の一派であり、平民のためのやさしく実践的な道徳教のことです。
目的は町人の教化にありました。
精神静養や道徳を説き、勤勉、正直、倹約、忠孝、堪忍などの徳目を尊重し
家の継続と繁栄を目指すという実践的な学問です。
この黒松光仲(通称/理右衞門)は
池田の西本町で薬屋を営む竹野屋に生まれ、
京都の心学者である布施松翁が説いた教えに感銘を受けて
31歳の頃に自ら京都の明倫舎に出向き教えを受けたと言われています。
池田に戻った光仲は自宅に修行場である会輔席(問答形式で知性の錬磨をはかる場)を設けたことが、池田での石門進学のはじまりとされています。
光仲を中心とした人々が講舎として認められるように京都の明倫舎に願いを出し「立教舎」が誕生しました。
当初は光仲らの自宅をもちまわりで会輔の場とし、
一ヶ月に三回活動(4日、14日、24日)が行われていましたが、
1817年から寄付金を集め、物品を出し合って託明寺の東隣に会場が設けられるようになりました。
講舎内では男女の席は分けられていました。
この時の開講式は盛大に行われたとされています。
稻束家日記には、文政5年8月5日 託明寺東隣立教舎にて云々とある。
光仲の死後、12年後には光休が46歳で死に、孫の光房は15歳の少年であり、とても心学の後を継ぐだけの年ではなく、一時絶えてしまいました。
黒松家にとっても、立教舎にとっても悲しい時期となりました。
1847年に再び再興され、孫の光房は30歳で庄屋となっていました。
この頃は専用の建物を持たずに、黒松家を本拠地とし、社中の屋敷や高法寺、集会所を借りていました。
しかし長くは続かず、いつまで続いたのかは判っていません。
池田市民俗博物館には立教舎の扁額や、心学五則などがあります。