池田市史を読んでいて気になっていた
吉田町の「織田の垣内」と「お城谷」があったのはどこらへんやろ?と
気候の良い日にお散歩してきました♬☻☻♫•*¨*•.¸
織田信長と池田
まずは、織田信長が池田城を攻めた時の話です。
なんと!池田城は織田信長に攻められ降伏しているのです。
1568年のこと、、、
信長は池田城を攻めるために五月山に陣を張り、総攻撃を命じます。
その陣は、横岡公園にあったのではないかという説もあります。
橫岡公園はよくわからない謎公園/織田信長が陣を置いた?
勇敢果敢な池田衆の迎撃より、池田城は簡単には落城しません。
熾烈な戦いで両方に死傷者が大勢出て大激戦となりました。
信長の伝記である「信長公記」にはこの熾烈な戦いを
臨場感あふれる文章で伝えています。
互いに討ち死にするものが多くなかなか決着のつかないことに
業を煮やした信長は「火をかけ町を放火候なり」と
池田の町に火を放って城を孤立させ、長期戦に持ち込む構えを見せました。
池田の町が火の海となり、焼きつくされました。
池田城主の池田勝正は
「この期におよんで我に利あらず」と降伏を申し入れます。
この合戦はたった1日で終わりましたが
勇敢に戦った勝正を信長は賞賛してお咎めはせず人質を入れる条件で
勝正に今までの所有権を認める特別の処置を行いました。
このあと1578年にも
織田信長は荒木村重を討つために池田に来ています。
この時に廃城になっていた池田城を再び利用したようです。
吉田町は、阪急池田駅からバスで久安寺へ行く途中にあります
この写真↓は、伏尾台にあがる道から撮りましたが
山の方じゃなく、手前のたんぼのあたりが吉田町です。
伏尾台のマンション
織田の垣内(オダノカイチ)とは、、、
細川神社の裏手で伏尾台との間はオダノカイチ(織田の垣内)と呼ばれ
織田信長が摂津国進出していた時代の城の遺構と伝えられる石垣の跡がありましたが伏尾台の住宅開発でなくなりました。
↓こちら細川神社です。
この裏山あたりが織田の垣内かと、、、思います。
こちらの図↓は池田市史第五巻より
お城谷(オシロダニ)とは、、、
吉田町全体をお城谷と呼ばれたのではないかと思うのですが
織田信長の城があったと伝えられています。
「信長の手水鉢」もありました。
現在は道路拡張で埋まってしまっています。
あちこちに古いお地蔵様
池田はわりとお地蔵様が多いと言われていますが
その理由の一つに織田信長に攻められた時に亡くなった人々の供養というのがあります。
畑を掘っていると出てくることがあるそうで
村で祀るものと、個人で祀るものがあるみたいです。
北向きのお地蔵様は村に入る伝染病を防ぐと言われています。
どのお地蔵様も手厚く管理されている様子で、
お供え物やお花がありました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
参考文献/池田市史・池田学講座