ある日突然!゚(⊙ө⊙)✩
豊中市立郷土資料館に行こう!と思い立ち、、、
せっかくだから、近所も散策してみようと調べて発見した神社⛩
「椋橋総社/くらはしそうしゃ」をご紹介させていただきます!!
訪問日/2023年4月🌸
コインパーキングに車🚐をとめて
Googleマップを見ながらテクテク🚶行くと、見えてきました!
実は、、大きな木が見えていたので、目星はすぐについてました👀☆
幼稚園もあるね(๑•᎑•๑)♬*゜
大きな木に守られている感じ、、、神社が木に覆われていい雰囲気になってます。
【承久の乱】と書かれた幟がたくさん立ってますね、わくわく😊
□御祭神 素戔嗚尊 神功皇后
□別 名 鯉の宮 椋橋荘神前松原の社
□創 建 不詳
□ご利益 国土安全・国家安泰・邪悪災厄除け・病気平癒・学問上達・縁結び
商売繁盛・交通安全・安産・子供守護
□住 所 豊中市庄本町1丁目2-4
□交 通 阪急宝塚線「庄内駅」から徒歩で30分
阪急バスの上津島線庄本停 西へ100m
昔々は牛頭天王社と呼ばれ、江戸時代には池田の八坂神社と豊中の利倉神社と
とともに豊島三大牛頭天王と呼ばれていました。
なんと!😲
入り口のところに池があって、鯉が泳いでますよ♪
どうやら、この鯉たちはとても大切にされいる様子です。
ネット情報によると広島カープファンの聖地として、
カープファンが優勝祈願などに訪れているそうです。(゚-゚)
金網で鯉がきれいに撮れない、、、
こちらの神社は鯉と深くご縁があるようですね。。。
そのご縁はあとで書きますね(๑•᎑•๑)♬*゜
鯉池改修の石碑
承久の乱とは、、、鎌倉殿でございますね♪
承久三年(1221)後鳥羽上皇が北条義時のいる鎌倉幕府を討つために挙兵したが
なんと!上皇は大敗し、隠岐に島流しにされる。
ご神木が素晴らしい!!
この神社が「承久の乱」と、どのような関係があるのでしょうね。。。
他に、ネット情報によると、1579年には、織田信長による荒木村重討伐の兵火で、
社殿、宝物、古文書等、ほとんどを焼失したそうです💧
拝殿 1917年(大正6年)4月再建。
拝殿の中には鯉の絵がたくさんありました。
こちらにも鯉、波の中を泳いでる感じですね
承久の乱との関係
古墳時代以降にこの辺りを治めた豪族、椋橋部連に由来して
鎌倉時代にこの地一帯を椋橋荘と呼んだそうです。
猪名川を伝って池田から木材の運搬があったり
港として栄えた地域だったとか。
当時、この地を所有していたのが「承久の乱」で負けた後鳥羽上皇。
(後鳥羽上皇は大河ドラマの「鎌倉殿」で学習しましたね)
後鳥羽上皇は白拍子(舞子または遊女)を集めて開催する豪華な宴が大好きで
その中に、上皇の寵愛を受けた亀菊という白拍子がいて
この亀菊に上皇は椋橋荘を与えた。
後鳥羽上皇は承久の乱により、隠岐に島流しになります。
白拍子から後鳥羽上皇の寵姫まで出世した亀菊が信仰していた天満宮が
摂社「出世亀菊天満宮」として祀られている↓こちらのようです。
縁結びの木
クスノキとクロガネモチの合体した御神木。
縁結びや夫婦円満の木として親しまれているそうです💏
どっちが旦那さんで、どっちが奥さんだろー(^▽^)
鯉の宮と呼ばれる理由
むかしむかし、素戔嗚尊が高天原から鯉に乗ってこの地に来られ
鯉は、ここまで来て力尽きて死んでしまい
それを埋めたのがこの鯉塚であると、伝記がある。
もう一個、鯉に関する伝記がある、、、
あのスーパー僧侶の行基が
猪名川で困っていた時に、どこからともなく多くの鯉が集まって
並んで魚橋を作ってくれたので、架橋工事を無事に終えることができた。
以後、行基は村人に鯉をとったり食べることを禁じ、
村人達は鯉は氏神の使いであるとし、得た鯉は境内の鯉池に放し
死んだ鯉は鯉塚に埋めた。
神前松原
豊島郡誌に「神前松原とはこの地なる由」とあり、
神功皇后が新羅を討つためにご加護を祈った場所のようです。
境内にある「神前松原遺跡の碑」
稲荷社
三社神社
手水
阪神大震災で倒壊した大鳥居と謎の石碑
境内
いっぱいお名前の書いた板がありました。
大きな鳥居
さて次はこの近くのお寺に行ってみようと南の方向へ歩き出すと
あら?はるか向こうに大きな鳥居⛩が見えている
境内から200メートルのとこにある大きな鳥居
平成8年に再建されたもので、旧鳥居は阪神大震災によって倒壊しました。
(先ほど紹介した境内写真の鳥居です)
これが倒壊したら、、、怖いですね😱
Googleマップ
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
豊中市は遺跡や古墳も多くあるので、これから探検が楽しみです♪