田中桐江は呉江舎を作り池田に文学を広めた儒学者/江戸時代の旦那衆は太っ腹/池田市

1668年3月24日~1742年7月27日 
江戸時代の儒学者、漢詩人。
本名を省、字は省吾。
桐江は号である。通称富春山人。
寛文8年(1668年)に出羽国田川郡鶴ヶ岡城下(鶴岡市)に、
田中一信の6男として生まれる。

16歳の時に江戸に出て山鹿流の兵学武術を学び
朱子学も修めました。

元禄12年(1699年)桐江31歳の時
徳川家第五代将軍徳川綱吉の大老であった柳沢吉保に仕えます
そこで学者の荻生徂徠(おぎゅう-そらい)と知り合い深い親交を持ちました。
将軍綱吉に儒学の講義をし、
芭蕉に荘子を教えた程の学者で武芸者でした。

正徳3年(1713年)
柳沢吉保の奸臣(悪い家来)を斬り
名前も出生地も偽って逃げ延びることとなります。
この事件にはいろんな説がありますが
郷土史研究の島田福雄氏によると
綱吉が急死した後、柳沢藩では若殿の吉里こそ
本当のお忘れ形見だからとひそかに将軍擁立策を立て
5年目に準備万端となったので実行となった時
それを知ったお抱え学者の荻生徂徠は驚き
後輩ながら親友の桐江に
自分は剣が弱いので強いそなたに頼むと持ちかけて
首謀者をやっつけさせました。
そのため、柳沢家にはなにも起こらなかったが
桐江はずっと逃げ回らねばならなかったと言います。

その後、光徳寺の僧である獨麟の薦めもあって、
五月山の大広寺の西北にある
東明寺という禅寺に隠れ住むようになりました。
↓こちらが大広寺


この頃の池田の商人(旦那衆)は太っ腹で
こうゆうさすらいの画家、俳人、書家、詩人などを
を大いにもてなしたとされています。

江戸時代にの芸術家は無一文に近い状態で旅に出
何事も運命にまかせるという
たいそうな苦労な旅をされました
そのため、辛く悲しく厭な思いもたくさんされたことと思われます。
↓こちらは大広寺へ続く道(現在)

池田の旦那衆はそうゆう芸術家達を
有名、無名の区別をつけずにもてなしました。
酒造りの町でもあり、たらふく旨い酒を飲ませ、料理を並べ
自分自身も席にでるという歓待ぶりでした。

芸術家達は自分の得意とすることを披露したので
池田の人はたくさんの知識を得て
そのうち文人となってしまったのです。
お金はかけましたがその分得るものも大きかったのです。


また池田には漢学好きがたくさんいたので
神様のように敬い、「なにとぞ塾を」と懇願され
富永仲基などの門下達と「呉江舎」(ごこうしゃ)を設立した。

呉江というのは、猪名川のことで
池田の古名、呉服里すなわち呉郷を流れるため
唐ぶってそう呼んだと言われています。
 
桐江が亡くなるまでの19年間、「呉江舎」の同人は114名を数え
その作品は「呉江水韻」として残されています。
墓所は、大阪府池田市の大広寺にある。

大廣寺(大広寺)についても記事を書いています
こちらクリックして下さい

出版物
著書
 『東海漫遊稿』
 『樵漁余適』
 『桐江語録』
 『愚聞漫抄』

桐江先生墓

先生姓富諱逸字日休一字春叟自號桐江釣客生於武陵父諱良次姓田中氏為豊州築城主之臣母辻氏出七子 先生其第六也晩有故変姓名以富為姓者不忘其本姓田也少小讀書好文特長武技及壯仕一藩侯列■御班後転小相兼弓隊指揮忽朝卓爾遂去適奥與高僧豪士交臂促膝朗吟劇譚十二年而還武陵更隠摂之呉山飽醉煙嵐著述頗多或時遊洛浪探名勝雙鳴鋏一痩■高視濶歩至老益壯平生風流薀籍雖嬰児能訓是歳寛保二年壬戌六月廿六日歿於隠所享年七十五葬於塩山萬松含翠處衲同 先生寓奥時修風雅盟有倶隠雲林之約是以預撰碑文併銘云
深山■兮 群松蒼兮 道其得兮 節自剛兮
竹道人梵柱撰 門人等建之

最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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