インゲン豆は池田と関わりがある/隠元/麻田藩菩提寺佛日寺/池田市

インゲン豆は、漢字で書くと「隠元豆」なのですが
なぜ「隠元豆」と呼ばれるようになったかを解説いたします(^^)/

調べるうちに池田市とも関わりがあることがわかりました😄

隠元隆琦(いんげんりゅうき)1592-1673
中国で生まれた中国人のお坊さん

長崎の唐人寺、崇福寺の住持に空席が出たことから
隠元は日本に
招かれたのですが、、、

最初は弟子を行かせましたが、船が座礁して亡くなってしまい、、、
(この頃は海を渡るのは命がけでした)

1654年に30人ほどの弟子とともに自ら日本にやってきました。
当時は徳川幕府による鎖国が確立していた厳しい統制の中、
長崎の出島に到着しました。

海を越えて、黄檗宗(曹洞宗、臨済宗とともに日本三禅宗の一つ)、
いんげん豆や、レンコン、たけのこ、スイカ、緑茶、ゴマ、ナス、もやし、印鑑、ダイニングテーブルなど、
多くの中国文化を日本に持ってきてくれました。

隠元が中国から持ってくれたので「インゲン豆」という
名前がつきましたのです(^^)/

そしてさらに、隠元さんは池田に来たことがあって
池田のお寺を開山したのです💁

隠元に帰依した二代目麻田藩主の青木重兼

この隠元が持ってきた新しい文化は将軍綱吉をはじめ、
大名や公家にも大きな影響をもたらしましたのです😄

池田の一部を治めていた麻田藩2代目藩主の青木重兼も隠元に魅力を感じ
高槻市の普門寺に隠元が滞留していた時に帰依しました。

重兼が建立した、池田市畑にある松隣寺を佛日寺と改称し
1660年に隠元を招いて開山しました。
実際に隠元が足を運んで池田に来たそうです。

重兼は隠元より「二木」の道号を与えられ、
佛日寺の他にも寺を建立しました。

麻田藩はわずか1万石の小藩主でしたが、
日本での黄檗宗の創設に大きな役割を果たしたのです!!

青木重兼は、麻田藩初代藩主の青木一重の甥でしたが
養子に入り二代目となりました。


蛍池にある、麻田藩陣屋跡です。
豊中市蛍池中町3-9-20

詳しくはこちを↓ご覧ください。
蛍池駅西側の麻田藩陣屋跡は大きな石碑がある



佛日寺の初代住職は隠元の弟子(慧林性機)が迎えられて
麻田藩主青木家の菩提寺としました。
現在も佛日寺の南林墓地に初代からの墓塔が完全な形で残されています。

そして佛日寺は摂津における黄檗宗の拠点となりました。

隠元の日本滞在は当初3年の約束だった

隠元は臨済宗の高層らによって強く慰留され、日本に留まることを決意し、
1663年に宇治市にある黄檗山万福寺を開きました。


この万福寺に大雄宝殿(国の重要文化財)を建立する時は
青木重兼がその造営奉行に任じられました。

重兼の黄檗宗への深い帰依は、麻田藩の経済状況を苦しくしていきましたが
黄檗宗を介して幕閣に食い込んでいくことができました。


池田市畑にある佛日寺

参考文献

池田市史第二巻
池田学講座
佛日寺公式ホームページ

スポンサーリンク
Sponsored Link
Sponsored Link

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする