蛍池駅西側の麻田藩陣屋跡は大きな石碑がある/豊中市

豊中から自転車🚲で池田へ向かって走っていた時に
ちょうど阪急宝塚線の蛍池駅の西側あたり、、、
なんか異様に大きい石碑があるな、と自転車とめて
まじまじ👀と見ると、、、

おぉ😍ここが噂で聞いた麻田藩陣屋跡ではないですか!

そのうち、ちゃんと調べて見に行こうと思っていたのでした😃

麻田藩陣屋跡(市指定史跡)

所在地:豊中市蛍池中町3-9-20
指定年月日:昭和62年(1987)9月1日

外様大名である麻田藩 青木氏 一万石の陣屋がここにありました。
元和元年(1615)頃に建築されたものと考えられています。
現在はとよなか起業・チャレンジセンターになっていて
陣屋の跡はまったくありませんのです😅



初代の青木一重は岐阜県の生まれで最初は徳川家康に仕えていましたが
1572年に豊臣秀吉の黄母衣衆となります。
豊臣家が滅んだあと、徳川家康から豊臣時代の領地を安堵され
領地は1万石余りの最も新参の外様大名となりました。

江戸時代を通して麻田の地を領し続け、
14代重義の時、明治維新を迎えました。

黄母衣衆
豊臣秀吉が馬廻から選抜した武者で、
武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物の着用を許された者。



青木一重は調べてみると、、、

●新坂の戦いで、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金。
●駿河侵攻で、武田・徳川軍との交戦で負傷する。
●姉川の戦いで真柄直隆の子を討ち取り武功を挙げて勇名を轟かせた。
などなどの武勇伝があって、
かなり勇敢で強い武将であったことが伺えます(^^)/

青木氏は外様大名でしたが
江戸時代の大名は、幕府によって3つの種類に分けられていたよ!

●親藩(親族)
徳川家の一門が当主である大名家のこと。


●譜代大名(家来)
関ヶ原の戦い(1600年)以前からもともと徳川家の家臣だった者が当主となった大名のこと。


●外様大名(ヨソもの)
親藩、譜代大名以外の大名のことで、関ヶ原の戦い以降はすべての大名が徳川家の支配下に置かれることとなった。
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コメント

  1. きょろ より:

    麻田藩陣屋跡の、建物は3棟が豊中市内に移築されて存在しますよ
    そのうち2棟は見学可能
    1棟は外観のみ見ることが可能です
    私のブログにも書いていますが、なぜかここにアドレスを貼り付けられないので
    下記アドレスのブログから
    2020年7月5日の記事をご参照ください
    春日町の報恩寺はすぐにわかります。刀根山の民家もわかりやすい場所にあります。
    岡町の民家は、ちょいと探すのがむつかしいかも?