忠孝のはざまで自刃した48人目の赤穂義士「萱野三平」箕面市

萱野三平(かやのさんぺい)は171号線を車で走ってると
大きく「萱野三平邸」の案内標識があるので存在は知っていましたが



萱野三平はどんな人物か調べてみると、、、

「えぇーー!なんでーー!!」と、

今の時代では信じられない事実が判明!

ほんまびっくりしまっせ!ゾクゾクしました!

↓こちら萱野三平邸の跡でございます。

あの有名な赤穂義士の討ち入りの物語『忠臣蔵』に深く関わる話です。
しかし、三平は四十七義士には入っておらず
討ち入りの前に自刃で亡くなってしまうのです。

それでは忠臣蔵を萱野三平にスポットを当ててご紹介いたします(^_^)/

萱野三平

本名は重実といい、三平は通称名。

1675年に源氏系で萱野郷の七郎左衛門重利 の3男として生まれた。
父が仕えていた、旗本大嶋出羽守義近の推薦により、
13歳の時に「赤穂城主 浅野内匠頭長矩の中小姓となりました。
この浅野内匠頭こそ、事件を起こした張本人なのです!

松の廊下刃傷事件

ことのはじまりは1701年3月14日、江戸城で浅野内匠頭は、
以前よりイジメを受けていたと言われる吉良上野介に堪忍袋の緒が切れて、
松の廊下でいきなり切りつけ顔と背中を怪我をさせる。
「松の廊下刃傷事件」

場所柄もわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、
第五代将軍徳川綱吉は激怒した。
(特にこの日は綱吉にとって大事な日だったようです)

浅野内匠頭はなんと!この日のうちに切腹となる。

切腹の場所は浅野内匠頭が罪人として預けられた
田村右京太夫建顕の上屋敷の庭でした。

切腹のときの装束や使用する刀も、
武士として尊重された扱いをされませんでした。

田村邸があった場所に、大正元年に創業された和菓子店「新正堂」があります。
ここの名物は「切腹最中」で、1990年に販売を開始し、人気商品だそうです。

直ちに赤穂へ知らせるため早駕籠を!

この事件がすぐに浅野家の江戸屋敷に伝えられると
直ちに赤穂へ第一報を知らせるため早駕籠がたてられた。

播磨国赤穂藩の筆頭家老である大石内蔵介宛ての書状を携え
第一報の早駕籠に乗っていたのが、萱野三平と早水藤左衛門でした。

この時点では浅野内匠頭の切腹は決まっておらず
第一報は刃傷沙汰のみが知らされた。

江戸から赤穂まで普通の旅人なら17日、飛脚で8日かかるところを
僅か4日で走破している。(駕籠の人がすごい!)

この道中、3月18日に西国街道沿いの萱野邸を通過する際、
前日に亡くなった自らの母親小満の葬列に偶然にも出くわし、
同行の早水満尭に「一目母御に会っていけ」と勧められるも、
「御家の一大事」と涙ながらに振り切り、
使いを続けたとする逸話がある。

3月19日未明に赤穂到着。
その後、第2報で浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の改易が伝わる。

その後、浅野家は所領の播州赤穂をとりつぶされた。
ケンカ両成敗のはずなのに、
吉良は日本刀を抜くことなく応戦しなかったためか咎めはなく、
将軍から見舞いの言葉をかけられた。

忠孝のはざま

萱野三平と一緒に早駕籠で赤穂を目指した早水藤左衛門は
四十七義士の一人として本懐を遂げるのですが
なぜか三平は義士伝から漏れてしまいました。

しかし、萱野三平に対する同情は暑く、「義士三平」として讃えられ、
その名が語りつがれているのはどうゆうことでしょう、、、

赤穂城下には270名の武士身分の者がいましたが
事件後に大石内蔵助と行動を共にすると誓約したのは61名。

「仇である吉良上野介義央の屋敷に討ち入りする!」

三平は血判し、父や姉妹に
「亡き主君の面目をたてんことを誓う」と手紙を出しています。
しかし、これに父の許しが出なかった。

それは吉良家と縁のある父の主君である大島出羽守に対する義理でした。

親子の関係を切ってもいいという三平の懇願も拒絶され
「父は父としての道より大島家につくす。汝は汝としての道により浅野家に忠をつくせ」と言われ、
仇討ちに反対した父に対する親孝行と、主君への忠義の板挟みになり、
進退きわまった三平は、、、、

「忠孝」二つの道を全うするために切腹したのです

1702年1月14日、月は違いますが主君の命日に28歳の命を絶つ。
「晴れゆくや日ごろ心の花曇り」は辞世の句

大石内蔵助が討ち入りした時

萱野三平が今日存命でいたら、きっとわれら一党の中に加わっていた」
と蔵之介は語っており、
討ち入りの時は三平の戒名をふところに入れてあったそうです。

西国街道沿いの萱野邸

萱野家は今の箕面市芝の一帯の領主として代々勢力を誇っていて、
「義士萱野三平邸の跡」として府の史跡指定を受け、
管理は地元の自治会がされています。


史跡として残っているのは、表門、三平自刃の間。

昭和15年頃、顕影会ができて遺跡保存に熱が入りました。
しかし、終戦とともに一挙に冷却。

三平の名前さえ忘れ去られようとしていましたが、
地元の方達が郷土の志士を守ろうという運動が広まり、
戦後の農地解放の時に、不在地主となっていた屋敷跡を
にわか農家に仕立て、人手に渡るのを避けました。

遺跡を個人で管理するのはとても大変なので、門と自刃の間を含む80坪を当主から譲り請けて自治会の管理としました。

昭和48年(1973)には大阪府の史跡指定を受けました。
また管理棟「涓泉亭(けんせんてい)」には、三平に関する資料が展示されています。
旧邸内の北西隅には辞世の一句を刻んだ句碑もあります。

■住所  箕面市萱野3丁目10-4
■休館日 月曜日(月が休日の場合は火)12月28日から1月4日
■入館料 無料






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