昔の池田は七夕をどんな風に過ごしていたのだろう/池田市

奈良時代に中国から日本へ入ってきた七夕は、、
日本の「棚機津女(たなばたつめ)」の伝説と
ミックスされたもののようですが、
宮中では星を眺めたり詞歌を楽しむものでした。

七夕伝説とは・・・

神の着物を織っていた織姫と、牛飼いの彦星が結婚するけど
遊んでばかりいて、ぜんぜん仕事をしないから
神様が怒って年に一度、7月7日だけ会えるようにした
というお話し。
七夕 織姫と彦星

池田の織姫伝説と混同されることが多いですが
主人公の職業が機織りというのは同じですが
まったく別のお話です(^^)/

昔の池田は七夕をどんな風に過ごしていたのでしょう

「墓掃除」「井戸替え」「水を祀る」日だった(^^)/

池田では七夕は笹を飾る日というよりも
7日盆の墓掃除をする所が多かったと言われています。


この頃は田植えが終わって骨休めができる良い時期だったようですね。

井戸替えという井戸掃除は2~3年ごとに行われ、
井戸の神様にお米、お酒、そうめん、スイカなどのお供えをし、

ツルベで水汲みをして底の石を丁寧に洗いました。
井戸替え職人に頼んだり、近所の人が手伝いをしました。
井戸さらえが終わり、新しい湧き水がたまると女の人は髪を洗ったり
汚れていない着物をわざと洗い、井戸の神様に感謝しました。

笹を飾る七夕祭りは大正の終りから昭和の始めまでは
8月7日に行われたそうです。
5日頃、子ども達は色紙などで飾りをつくって、
短冊にいろいろな願い事を書きました。
豊かな母なる猪名川の川辺で笹を切って、家の軒に飾り、
その夜に子ども達は遅くまで遊ぶことができたといいます。
そして7日の早朝に呉服橋で「七夕流し」がはじまりました。

この笹をとりに行く猪名川の川辺は薄気味悪い場所で
丑の刻参りをする人がいて、白装束で椋の木に釘を打ち付けていて
実際にその痕跡を見た人がいましたそうです(@_@)

稻束家の7月7日

池田の旧家、稻束家の盆行事は7月7日から始まったと記録があります。
7月13日は精霊祭で、家に先祖の霊を迎える祭が行われていました。
稻束家日記によると、当主が西光寺に参詣し、夕方には紋付袴で小刀をさし
横岡にある墓地に参りました。
墓にお供えをし、線香をつけ、お迎えに来た事を告げて、線香を自宅まで持ち帰り仏壇に供える。
家に着くと同事に読経をしてお茶を供える。
7月15日には早朝から線香をつけ順礼橋で精霊を送り、
その後お墓に参詣することになっている。
稲束家住宅/日記/板垣退助の宿で文化サロン

各地域の七夕まつり

建石町・上池田
笹に短冊をつけて呉服橋から猪名川に流した

木部
井戸替えをし、スイカやきゅうりをお供えする
七夕は子どもが学校でする行事で、昔は川に笹を流したが、
しなくなっている。


東畑
七夕祭りがが行われ、各家で笹飾りを作った。

上渋谷
七夕祭りが行われ、笹に願いごとを書いた短冊を飾る

昭和初期の池田 子ども物語より

「昭和8年 7月7日 金曜日 本日は晴天なり
幼稚園行きをしている末の弟が、笹に飾りをつけてくる」
という長谷川日記による記録が残っています。
この頃は、池田市内には幼稚園が2つあったようですが
七夕祭りがされていたのがわかります。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。
池田と七夕祭はそんなに関係はないようです。
給食には、七夕ゼリーとかそうめん、七夕汁が出ているようです(^^)/
介護施設などでも、星形にかまぼこを切ってそうめんを食べたりします♪
短冊を書いていただくと、「おまんじゅうが食べれますように」とか
食べ物の願い事が多い(*_*)

参考文献/池田市史・昭和初期の池田子ども物語

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