池田では 🙂
2万年前ぐらいから人が生活していたのではないかと言われています。
最も古い人の痕跡は約2万年前の旧石器時代のものですが
はるか遥か昔のことは文書ではなんにも残ってないので
遺蹟でいろいろ出てくる”物”からしかわかりません。
宮ノ前遺蹟や伊居太神社参道遺蹟からナイフ型石器などが出ていることから
このあたりに人が暮らしていたということがわかりました。
この2万年前から池田で生活してた人々は一体どこから来たかは
わからないし、その子孫が今の池田にいるのかどうかもわかりませんが(~o~)
3世紀の仁徳天皇の頃に
猪名県(いなのあがた)と呼ばれた今の池田市あたりに
佐伯部という人々が住んでいたということは確かなようです。
※仁徳天皇は、織姫を大陸から来させたという応神天皇の次の天皇で
応神天皇の息子です。ということで、ものすごーく昔々の話です(^^)/
佐伯部というのは古代日本からある「人の集団」の一つだそうです。
もともと佐伯部は日本の中部で暮らしていましたが、
ヤマト王権の拡大において捕虜となり
伊勢神宮に献じられましが、
昼夜の区別なく騒ぎ、神宮にも無礼を働くので
倭姫命(やまとひめのみこと)によって朝廷に差し出され、
奈良県桜井市の三輪山に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働いて、
おまけに人々を脅かすので、
播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたとされています。
猪名県(いなのあがた)と呼ばれた今の北摂あたりにも、移り住んだそうです。
佐伯部という人々は、イメージ的にはですが、、、
とても賑やかで、言うたら悪いけど野蛮な感じなのかな、
それにしても捕虜になったのに騒いだり無礼を働いたりしたのは、すごい自由な捕虜なのですね
これらの佐伯部はそれぞれの地方の国造の一族によって管理され、
管理するものは佐伯直(さえきのあたい)を名のりましたそうです。
叫ぶ
王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」
意味不明の言葉を騒がしくしゃべる、(さえずるはここから来た)
佐伯部のこんな話が「日本書紀」の仁徳天皇38年7月条に残っています。
仁徳天皇が皇后と一緒に毎晩
とがの(大阪北部)の方から聞こえてくる鹿の情緒ある鳴き声を楽しんでいたが
急にその鳴き声がしなくなったので残念に思っていました。
翌日、猪名県の佐伯部が天皇に鹿の肉を届けた。
「どこの鹿か?」と聞くと「とがのの鹿です」と答える
天皇はこの殺され肉となった鹿こそ、皇后とともに毎夜楽しんでいた鹿の声の
鹿に違いない、自分が愛しく思っていたのを知らず殺してしまった佐伯部を許せず
佐伯部を現在の広島県にに移住させた。
この話からわかることとして
佐伯部が狩猟を得意としていて、
食料を納めることを日常の職務としていた集団であったということです。
さらに大和政権を支える軍事的な役割を担っており、
政策的に各地に配置されたようだ、とのことでございます。
現在の池田市の五月山が古代に「佐伯山」と呼ばれていた
五月山にある愛宕神社には「佐伯部祖神」が祭られていることから
五月山とその周辺には佐伯部が住んでいたと思われています。
「さえき山」が「さつき山」に訛ってそうなったかどうかはわかりません。
5世紀頃からは渡来系の秦氏が進出してきますよ(^^)/