池田の織姫伝説は本当なのか?創作の裏事情をいろいろ/池田市の歴史

池田市の織姫伝説
市制80周年もありここ2~3年注目されています(^^)/

七夕の「天の川伝説」とごっちゃにされている方もおられますが
それとは違いますよ

池田市史や、その他に書かれた文献を読んでいると
どうやら池田の織姫伝説は事実ではなく、
上氏が池田氏と交代した室町時代あたりに
何かの意図をもって創作されたものではないかと考えられます。
日本のどこかであったこと(おそらく奈良)を池田であったこととして
誰かが池田の歴史の1ページに加えたのです。

誰かが何かの意図をもって池田の織姫伝説を創作したというのは
それも池田の歴史であるということです。(*^-^*)
美しくロマンチックな伝説として語られている、
この伝説の裏にあるものを

興味を持って見てみるといろんな事がわかります。


今から約1700年前(古墳時代)、、、

阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)親子が応神天皇から

「中国には機織りと縫い物が得意な女子をがいるらしいから
連れてきてくれへんか?」

と言われて、中国へ行きました。

二人は朝鮮半島を渡って、朝鮮人の案内で呉で王様に会って
あやは・くれは・おとひめ・えひめの四人を授かり、日本へ帰りました。

途中、九州の沖の島で宗像明神に

「えひめをちょうだい」

と言われて差し出し、
残りの3人を連れて武庫の浦に帰りついたが、、、

応神天皇はもう亡くなっていて
仁徳天皇に3人を差し上げました。

行って帰るまで5年の歳月が流れたそうです。
↑↑このことは日本書記(奈良時代の歴史書)にばっちり書かれているそうです。

池田の織姫伝説では・・・

3人は猪名川をさかのぼって、新町の中橋あたりから上陸したとして
そこを唐船ケ淵とよんでいますよね
ここで、何故かいつの間にか一人減って、あやはとくれはだけになるのですが・・・(*_*)

機織りをしたり、糸を染めたり、縫ったりし、その技術を人々に教えたと言われています。

池田市内には水を汲んだ井戸「染殿井」とか、
機織りをしてた場所が星の宮「星御門」
出来上がった絹をかけたのが「絹懸松」
祀る塚を「姫室・梅室」として残っています。

137歳の長寿で呉服神社と伊居太神社に今は祀られています。

ところが!!織姫一行は奈良へ行っていた

日本書紀や雄略記には猪名川の港についたとはどこにも書いてありません。
住ノ江を通って奈良の桧隈に入ったとなっています。
奈良の糸井神社の言い伝えによると「あやはとくれは」はここで暮らして亡くなったとされており、糸井神社に祀られています。

西宮にも同じような織姫の言い伝えがあります。

ほかにも摩訶不思議なこと

呉を中国江南地方と考えても、なぜそこに行くのに朝鮮半島をわざわざ経由するのだろう
そこに王がいたとしても誰か?
呉は確かに存在したが、280年に滅亡している。
呉(くれ)は高句麗ではないかという説があり、そうするとつじつまが合う。

観世世阿弥の謡曲「呉服」

御宇多天皇の側近者が住吉神社に参り、
浪速の浦伝いに西宮へ行く途中で機を織っている音を聞き、
その人に会って話しをする、それがあやはとくれはの化身であるとなっている。
池田の伝説が本当であるなら、西宮に行くのにわざわざ寄り道をしたということになり
どうにも理に合わないし、おかしな話である。

西宮市からの問い合わせ

西宮市の教育委員会から「どっちがほんまでんねん?」と問い合わせがあった時
池田の郷土史研究をされていたS先生は
「これは伝説で目ぇむいて議論する程のことやないけど確かに世阿弥は御地の方に基づいてますな」と返事をしたそうです。

郷土史の研究されてる方は池田か西宮なら、西宮がほんまやろう、と言います。

くれはとり・あやはとりは人の名前ではない

呉服(くれはとり)は人の名前ではなく
中国江南地方であみ出された機織技術を持つ工人のことで呉の人とは限らない
漢織(あやはとり)も人の名前ではなく
中国南北両系の機織りを収得した技術者集団をさす。

くれはとり・あやはとりがいた形跡

二人の織姫が池田にいたという形跡はほぼ0であり実証できない。
高槻市にある神服神社には古代の機織り集団が遺した遺跡がある。

梅室と姫室

阪急池田駅付近にあったと言われる梅室と姫室は、
くれはとりとあやはとりを葬った古墳と言われてきましたが、
明治42年に梅室が発掘調査されましたが平安時代の和鏡三面の出土のみでした。

つまり平安時代のものだったのです。
姫室も調査されましたが何も出てきませんでした。

この伝説を誰がどんな目的で作ったのか

【大阪春秋17号によると】
池田の歴史を見てみると池田氏が握る前は坂上氏が支配していました。
坂上氏というのは、織姫を中国から連れてきた阿知使主の子孫です。
池田教依(初代池田城主)が美濃の国からやってきて坂上氏を追い払い
五月山に城を構えましたがその時に、
池田の人々が「池田氏なんか最低!大嫌い!」とならないように
坂上氏の先祖を祀らなければいけないと思って
阿知使主と都加使主を猪名津彦神と崇めました。
その時にできたのがあやは・くれはの織姫伝説ではないかと言われています。
池田氏はお金持ちだったので文化人に上手い具合に製作させたのかもしれない。
(林田先生、島田先生他数名の対談より抜粋)

【池田市史によると】
坂上氏が池田地方を抑えるために自分の先祖の阿知使主・都加使主を祀り
その輝かしい事柄として日本書紀に記載された織姫導入の功績を顕示する必要があったのではないか。
しかしこの地にはすでに秦氏の社があって、それを失うことなくその上に
阿知使主・都加使主を祀り自らの威厳を整え、さらに時が過ぎてから池田南部の一画に
呉服鎮守の農業神としての牛頭天王を祀る呉服天王社を創りました。
これが呉服神社の後の姿と考えられています。

池田にくれはと呼ばれる地は平安朝からあった

池田のくれはが、後の呉服ノ庄に発展しましたが
呉服というのはお姫様の名前だけではなく、呉服部、呉服造などと氏族名にもあった
全国に呉服の地名があるのはこうゆう人々が住んでいた所なのです。

織姫伝説はいつ頃できたのか

坂上氏を契機としてできたもので、その時期は鎌倉時代から室町時代といっていいだろう。

織姫伝説について過去にいろいろと記事を書いています。

織姫伝説はお姫様の話?縫工女や機織りがなぜ姫と呼ばれる

織姫伝説はどこまで事実?クレハトリとアハヤトリ

猪名津彦神社は元古墳で織姫を連れてきた阿知使主・都加使主がご祭神

織姫伝説☆ファンタジー☆童話

参考文献/池田市史・大阪春秋

スポンサーリンク
Sponsored Link
Sponsored Link

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする