江戸時代、池田には38件の酒蔵があって
伊丹のお酒とともに品質よく大人気で
「くだり酒」と呼ばれ江戸の人達にももてはやされたといいます。
特に満願寺屋の酒は将軍家御前酒として珍重されており
満願寺屋の屋敷は広大で、本町から城山町にいたる規模でした。
今でいう「くだらないものですが・・・」という言い回しは
くだり酒からきているのです(^^)/
あの好色一代男で有名な井原西鶴が著書「西鶴織留」の中で
伊丹と池田の酒造りを紹介して「軒を並べて今の繁昌」と書いています。
だんだんと池田の酒造が衰退していったのは
徳川家康からの朱印状を失ったことと
江戸へ酒を送る手段に遅れをとったことにあります。
江戸時代後期には酒造業統制策の緩和があって
西宮や灘で新しい酒造りが始まりました。
六甲山の急流河川を利用した水車精米の導入
そして海が近く直接船積みできて、江戸へ送る送料が
安くついたというところが大きかったのです。
海まで遠かった池田は船積みするにしても江戸への送料が高くつき
設備投資や仕込み等でもだんだんと遅れをとりました。
猪名川を利用して物資を輸送しようという計画が何度も出されたようですが
池田の問屋や陸上輸送を商いとしている馬借り等から反対を受けて
なかなか認可されませんでした。
ようやく認可された1784年は最初の願いが出されてから
なんと150年も経ってからのことでした。
しかも船は三キロも下流の伊丹下河原までしか入れませんでした。
池田から荷駄で酒を下河原まで運び、ここで川船に積み替えて
それからさらに樽廻船に積み替えるという、
かなり余分な送料と手間がかかる面倒なことになっていました。
こうして、伊丹、西宮、灘の酒造から遅れていったのです。
隆盛を誇った満願寺屋の子孫が他村へ転居したのは明治維新前後のことで
この満願寺屋敷で北村吉次郎が酒造りをしていましたが、それもなくなり
荒廃するまでその姿をとどめていましたが昭和7年に取り壊されました。
その他の古い酒造家は幕末までにほとんどが廃業して子孫もいなくなり
新興の酒屋が入れ替わり明治時代を迎えました。
明治から大正にかけては10件あった酒造家が
昭和の戦後4件残っていましたが令和の現在は2件になっています。
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