荒木季谿 りけい(1736-1807)
荒木梅閭 ばいろ(1748-1817)
二人は荒木蘭皐(らんこう)の息子で、
池田内田町(大和町)にあった鍵屋の別家、挹翠軒に生まれた。
長男の季谿は鍵屋を継いで酒造業を営みました。
名は廷喬、通称は善右衞門、字は陳衍、号ははじめ商山、
のちに季谿とする。
叔父の富永仲基に従い、懐徳堂に入る。
特に漢詩文に秀でて「大東昭代詩記」や「東雅」等を著しています。
古楽や書にいそしみ蹴鞠、骨董を趣味とし、勝部如春斎や呉春の手ほどきをうけて絵もたしなみました。
呉春が中国の歴史画を書く時には相談を受けたといいます。
梅閭は名を方彬、通称は続三郎、懐徳堂で中井履軒に師事して漢学を学び、兄の季谿とともに池田を代表する文人です。
特に書と画に優れていて、「妙真に入る」と称賛されていました。
文化年間1804~1818に呉服神社の神官を務めていました。
大廣寺の「牡丹花隠君遺愛碑」や高法寺の「川田祐作居子遺愛碑」は
梅閭の筆によるものです。
牡丹花隠君遺愛碑↑
荒木季谿と荒木梅閭の二人が没したあとは池田の文化は衰微を余儀なくされましたがその後に酒造家西大和屋の当主、山川正宣が江戸時代の最後の文人として出てきます。