塩増山 大廣寺(大広寺)をご紹介🎵
■池田城主の菩提寺
■住 所 池田市綾羽2-5-16(阪急宝塚線池田駅)
■駐車場 有料の市営駐車場あり
■開 山 応永2年 1395年
■御本尊 釈迦牟尼物座像 両脇に文殊菩薩、普賢菩薩
鎌倉時代の「運慶」の作ではないか、とされている
アクセス
阪急池田駅から徒歩圏内(少し歩きます)
五月山体育館の向かいあたりの五月山中腹にあります。
「陽春寺こちら」の看板を上がっていくと
何百年かタイムスリップしたような石段があります。
500年を超える古木の根っこが力強く石段のところまで
ウネウネと生えており長い歴史を感じます。
うっそうと木々が生い茂り、しばらく時の流れを忘れます(^^)
しばらく行くと大広寺7世によって創建された
陽春寺の山門が見えてきます。
ここは太平洋戦争の末期、大阪大空襲の時に焼夷弾が投下され全焼し、
屋根を突き抜けてお寺はもちろん、たくさんの重要な書類(大阪検察局)
などが焼けてしまいました。
陽春寺の前をさらに上がっていくと大廣寺の門が見えてきます。
開山は「天厳宗越禅師」
1395年 永平寺御開山道元禅師より第七代目の天厳宗越禅師が開山
1470年頃 五代池田城主の池田充正は当時の従持祥山に帰依
諸堂宇を再建し、五月山上に望海亭を建てる。
池田充正の代が最も安定し財力にも恵まれており
塔頭が36院ありました。
望海亭跡は豊臣秀吉も来た五月山にある東屋/山川正宣
1507年 牡丹花肖柏が移り住む
山号「塩増山」の由来
昔、この山中に池があって海のように満ち引きがありました。
その水は塩川と名付けられ「からき水」で塩泉がわき出ていたそうです。
創建されるときにこの池を埋めましたがその旧跡を遺して山号としました。
山門と白い龍
門をくぐり振り向くと「白い龍」
🎵わかりやすく物語にしました
あるお寺の山門にいる白い龍のお話し
昔々、山門に住んでいた龍が、毎晩弁天池に水を飲みに行き
バシャバシャと音をたてるので、
住職は眠れず、これをなんとか辞めさせようと考え
「眼を塗りつぶして見えなくしてしまえば降りて来られないだろう」
とひらめいた!!
そこで昼間に龍の眼と全身を白く塗りつぶしたところ
竜は降りてこれなくなり、ずっと山門に留まり守り続けている
🎵池田には龍のお話しがたくさん残っています。
池田の龍のおはなし/寿命寺の雨乞い竜/大廣寺の白い龍/五月山の龍
本堂
創建以来何度も消失していますが、現在の本堂は1716-36の建立です。
鐘楼
梵鐘は池田市に残る最も古いもので
慶長14年2月(1609)の制作年が刻まれています。
池田城主であったとされる池田知正の法名である
「前備州一相乗実禅定門」とその養子の池田三九郎の法名である
「俊獄常賢大禅定門」が銘文に刻まれていて
知正の弟、池田光重が両人の菩提を弔うために奉納したとされています。
牡丹花肖柏
大廣寺には塔頭が36院あったといわれ、
主に「泉福院」「明悟院」「陽春庵」がありました。
この「泉福庵」に1507年、高名な連歌師の牡丹花肖柏が京都から移り
「夢庵」と名付けた庵を結び、香・花・酒を愛し
風雅三昧の日々を過ごした言われています。
本堂前には「牡丹花肖柏遺愛碑」があります。
1804年に田中桐江によって建てられました。
🎵詳しくはこちらをどうぞ↓
牡丹花肖柏は池田文化の礎!連歌師・花と酒を愛した粋な文化人
田中桐江は呉江舎を作り池田に文学を広めた江戸時代の儒学者
大廣寺の墓地
🎵池田城主 池田知正と池田三九郎の墓
田中桐江の墓
🎵小林一三の墓
風人の碑
🎵初代山中新右衛門幸元の墓
細原はなの墓
山中家の墓(大阪豪商鴻池氏の本家)
など多くの著名人のお墓があります。
血天井
血天井は見たことないのですが、現存するようです。
1507年の細川高国と細川澄元らの家督相続争いで
澄元に味方した6代城主の池田貞正が細川高国に攻められた。
🎵池田城は落城し、貞正が切腹したときの板が張られている。
池田城物語③/池田城落城で池田貞正が家臣とともに大廣寺で切腹、血天井
揚羽蝶の瓦
丸瓦が揚羽蝶になってます!
お寺の装飾なので、揚羽蝶はよく見るのですが
少し調べてみますと、、、
備前岡山藩の池田信輝が織田信長の遊び相手として出入りしているうちに、
信長の父である織田信秀に気に入られて蝶紋の麻裃を貰った
という記述を発見しました。
岡山城主池田家は池田充正の弟の恒元が分家したものです。
大廣寺にある池田家関係の位牌家紋は全部揚羽蝶なんだそうです。
写真いろいろ
奥の方にモニュメントみたいなのと、鳥居、祠、池があります。
右に見える大きな建物は庫裏です。
こちらの記事もうぞ
🎵池田市内のお寺総まとめ↓
【保存版】池田市の寺巡りマップ|国重文から珍しい伝説まで全網羅
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