もう何年前になるのか忘れたけど
池田市伏尾町のあたりの山に八幡城🏯という、
幻の古城があったのではないかと、そうゆう調査に行ったことがあります。
池田郷土史学会に入会したての頃に調査に参加し、
道もないような山の中をあっちこっち歩きまわり
転んで正座した形のままズルズルズルって滑ったり、、、( ꒪⌓꒪)
そんな山の中で、はじめて「道供養碑」を見たのです。
↓その時の写真
これ↑を見た時は
えぇ~~なんでこんなとこに、こんなものがあるの!!?
と、びっくりしました (o゚▽゚)o
場所はこのあたり↓
幻の古城🏯「八幡城」はあったのかどうか、はっきりわかっていません。
でも、何かがあったことは確かだそうで、
大きなお寺の跡かもしれないし、お城だったのかもしれないし、、、
このあたりは、どんどん開発が進んでいるので、
もしかしたらわからないままかもしれません。
池田郷土史学会 2022年12月例会は池田の道供養碑について
池田郷土史学会の12月例会は
池田の道供養碑について会長の室田氏が講演されました。
実はこの室田氏は私が中学生の時の社会の先生で
久しぶりの室田節を聞きながら、中学の教室を思い出してしまいました(*^^*)
ここからは、室田会長の講演とレジュメから、ご案内します🙎
●伏尾から箕面市止々呂美に通じる峠に道供養碑はある。(標高230)
●この峠は昔の絵図によると「梨子木峠」という名前で江戸時代には重要な街道。
●かつての人々がこの峠を越える時に、一服するのにちょうどいい場所でした。
●1769年に建立されてから250年以上が経つ。
どうしてこのような場所に、このような石碑が建てられているのか?
興味はそこにつきるのですが💡
結論から先に書くと、何もわかっていないのです( ꒪⌓꒪Ⅲ)
道供養碑の高さ 114㎝
正面の横幅 38㎝
側面 36.5㎝
正面には大きく 道供養
上部には 大乗妙典
この石碑にはぎっしりと戒名が刻まれており全部で113名
その中には子どもと思われる名前もあるのです。
(この名前を知りたい方は私までお問合せください)
裏面からわかるのは、、、
大坂の、(おそらく飛脚問屋の)島屋金兵衛が伏尾村の孫七のお世話で道供養碑を建立したということ。
道供養碑の拓本をとって、何が書かれているのかはわかっていますが
この戒名の人々がどうゆう関係者なのか
島屋金兵衛や孫七とはどんな人なのか、わかっていません。
いつ 1769年
どこで 伏尾の山奥 梨子木峠
誰が 島屋金兵衛が伏尾村の孫七のお世話で
何を 道供養碑を
どうした 建てた
こんな感じです。
全国にも、道供養碑という存在は何カ所かあるようですが
道しるべとか、お地蔵様と比べると、ものすごく数が少ないです。
ここから↓昨日の夜に帰ったから考えたことですが、、、
道を供養するとはどうゆうことなのか
道が死んだということなら、自然災害で山が崩れた、とかかもしれないけど
江戸時代に山が崩れることや、川が氾濫することは珍しくないこと。
その道供養碑に人の戒名が彫られているというのは
その道が死んだ日に、たくさんの人が一緒に亡くなったということなのか、、、
そういえば、伏尾には「いごき」という地域があって
大昔に山が動くほどのすごい地震があって、それで「いごき」と呼ばれていると
聞いたことがありますが、それと関係しているのか?
いろいろと想像はできるけど、 事実はどうなのでしょう?
これからも調査は続けられるそうなので、
また何かわかりましたらお知らせいたしますね◝(⑅•ᴗ•⑅)◜..°♡