大河「麒麟がくる」池田城の池田勝正が明智光秀と深く関わっていた!

2020年1月19日(日)から始まる
大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀のお話ですね(^^)/

明智光秀といえば、
謀反を起こして織田信長を討ち、
数日で豊臣秀吉に滅ぼされたました。
※三日天下という言葉がありますね

もともと身分は高くない明智光秀が
どのようにして出世したのか、、、
どんな青年だったのか、、、、

そしてなんと(^^)/
この明智光秀が池田城の池田勝正と深い関わりがあったそうです。


初代池田城主の池田教依(のりより)は1330年代の人。

その二代目は、先日このブログでも紹介した楠木正成の孫の教正です。

五代城主池田充政は応仁の乱の時に細河勝元側として
「馬上12騎、野武士千」で参戦しますが、
西軍の大内政弘に攻められ池田城は落城。(その後復活)


1500年代には六代城主池田貞正が細川家の家督争いに巻き込まれ
一ヶ月に渡る激戦のあと落城。300名あまりが討ち死にしています。
貞正は家臣とともに大広寺にかけこみ自害、
この時の地がついた板がまだ残っていて血天井とされています。


池田氏はその後もあいつぐ政権争いの波に巻き込まれて
落城したり城主が切腹したりで勢力拡張の機を阻まれることになります。

九代城主池田勝正は1530年代の生まれで、
明智光秀の方が10歳ぐらい年上になります。

同じ頃に生まれているのは
荒木村重、豊臣秀吉、織田信長、というメンバーです。

勝正が池田城主になったのは1560年代です。
ちょっと前に桶狭間の戦いや川中島の戦いがありました。

織田信長が池田城を見渡せる五月山に陣を張り、
勝正のいる池田城を攻撃しますが

戦わないで降伏することを潔しとしない勝正は勇敢に戦います。

いよいよ信長が総攻撃を命じます。
一番乗りを争い池田城の外構に乗り込んだのは
梶川平左衛門と魚住隼人ですが
梶川は腰骨を槍で突き上げられて落命し、魚住は負傷して退散。

勇敢果敢な池田衆の迎撃より、池田城は簡単には落城しません。
熾烈な戦いで両方に死傷者が大勢出て大激戦となりました。

信長の伝記である「信長公記」にはこの熾烈な戦いを
臨場感あふれる文章で伝えています。

互いに討ち死にするものが多く、
なかなか決着のつかないことに業を煮やした信長は「火をかけ町を放火候なり」
池田の町に火を放って城を孤立させ、長期戦に持ち込む構えを見せました。
池田の町が火の海となりました。

この時にたくさんの文化財も焼けてしまいました、、、

そして勝正は「この期におよんで我に利あらず」と降伏を申し入れます。
勇敢に戦った勝正を信長は賞賛してお咎めはせず人質を入れる条件で
勝正に今までの所有権を認める特別の処置を行い
池田城に池田勝正、高槻城に和田惟政、伊丹城に伊丹親興を配して
「摂津の三守護」として領国配置を行いました。

また勝正は室町幕府より摂津守護に任じられて、摂津をおさめました。

こうして池田家は勝正の代で、今までにない社会的地位を得ることとなります

ここで明智光秀との接点が出てきます。
1570年の「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)では

木下藤吉郎、明智十兵衛と並んで勝正が殿軍(しんがり)を務めました。
殿(しんがり)とは、後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊。
かなりの功績があって、秀吉や光秀との関係も深かったと想像ができます(^^)/

大河ドラマの中で「池田勝正」という名前が出てくるといいですね
池田城の池田勝正はそんなに知られてはいませんが
織田信長に攻められた時に勇敢に戦い、時の将軍からも頼りにされた人物です。
そんな勝正の生きた時代を垣間見ることもできる
大河ドラマ「麒麟がくる」楽しみですね♬☻☻♫•*¨*•.¸

戦国大名池田勝正研究所
でも詳しく書かれていますので
興味のある方はご覧くださいませ(^^)/

スポンサーリンク
Sponsored Link
Sponsored Link

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする