美女丸伝説で知られる”小童寺”をご紹介します(^-^)
登場する人々が童話や謡曲になっている古い歴史のあるお寺です。
■山 号 忠孝山
■御本尊 阿弥陀如来
■開 基 源賢僧都(美女丸)
■創 建 平安時代 974年
■住 所 兵庫県川西市西畦野杉ノ坂8
■最寄駅 能勢電鉄妙見線 山下駅から徒歩30分
「絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図」は国の登録文化財。
(大阪市立美術館に所蔵)
アクセス
今回、電動自転車で行ってきました♪
池田方面から173号線を北へ、見野三丁目の信号を左折(スシローある)
市立川西病院、素戔嗚尊神社を通過すると、案内版が見えてきます。
親切に何カ所も案内がありましたので、迷いませんでした。
坂道を上がったところに、長い階段が現れます。
道は細いですが、車も通ってましたよ。
この石垣↓チラリとしか見えませんが、全体で見ると圧巻!
大きな石や小さい石をうまく積み合わせて、見事でした。
源満仲(みなもとのみつなか)を知らずに語れない、、、
912~997年 平安時代の武将
池田、川西市ではおなじみの「まんちゅうさん」
第56代清和天皇の曾孫にあたります。
今から1000 年以上前、当時の都だった京都を離れて
川西市の多田の地に移り住んだといわれています。
天禄元年(970年)に、多田院(今の多田神社)を創建しました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝や
室町幕府を開いた足利尊氏など全国に名を馳せた源氏の武将たちは、
すべて満仲公の子孫で、川西市は「清和源氏発祥の地」となってます。
満仲が矢を放ち九頭龍を退治したという伝説について池田と川西の
両方に九頭龍の神社があります。
九頭大明神/九頭神社「九頭龍」源満仲
伝説がある九頭龍神社は古墳の上に鎮座/御利益/池田市
悲しくせつない ”美女丸伝説”
源満仲は、我子で三男の美女丸を、戦で血筋が途絶えないように僧侶にしようと考え、修行と和歌や管弦等を習わせる為に中山寺に預けましたが、、、
武門の血をひく美女丸は、僧侶になることを不服に思い、
武芸のまね事ばかりして遊んだり、時には悪戯をすることも。
美女丸が15歳になったある日、満仲は修行の成果を尋ねましたところ
和歌や管弦はもとより、経文も読む事ができないのを知った満仲は怒り、
家来の仲光に美女丸を斬るよう命じました。
仲光は主君の若君を斬ることができず、困り果てていたところ
仲光の息子、幸寿丸が「わたしが身代わりに」と斬られることを申し出、
幸寿丸の首を満仲に差し出し、美女丸を密かに比叡山に送りました。
後にこれを聞いた美女丸は悔い改めて修行に励み、高僧源賢僧都となり、
身代わりとなった幸寿丸を弔うため小童寺を建てました。
「君がため命に代える後の世の やみじを照らせ山の端の月」
藤原仲光・幸寿丸・美女丸の墓
満願寺にも、同じようなお墓があります。
本堂の前に縁起が書いてありました。
美女丸の兄 源頼光
源頼光は、平安時代の中ごろに活躍した貴族であり武将。
源満仲の長男で、美女丸のお兄さん。
『今昔物語集』や室町時代になって成立した『御伽草子』などで
大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られている。
母方の一族の嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭にした頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)などの家臣がいた。
この小童寺には、四天王のお墓があります。
源満仲とともに、頼光も多田神社の祭神となっています。
お墓は多田神社の本殿真裏にあり、普段は公開されていません。
源頼光の四天王 渡辺 綱(わたなべ の つな)の墓
平安時代中期の武将で正式名は源綱(みなもと の つな)953~1025年
摂津源氏の源満仲の長男である源頼光に仕え、
頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。
先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされ
綱も美男子として有名でした。
大江山の酒呑童子退治や、
一条戻橋で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とす逸話で有名。
源頼光の四天王 坂田金時・平井保昌・ト部季猛の墓/十三石板碑と無縫塔
渡辺綱の墓の下にあるので、渡辺綱は別格だったということがわかります。
坂田金時といえば、まさかりかついだ金太郎で有名な人ですが
そういえば、満願寺にもお墓がありました。
坂田金時の墓石は十三石板碑と言われ、石面に十三体の仏様が浮かぶ。
平井保昌の墓石は無縫塔と呼ばれていて、どちらも室町時代初期の作。
こちら以前の写真をネットで見ると、「十三板碑」「無縫塔」とされていて
四天王のお墓ではなかったようなんですが、、、
本堂
鐘楼
多宝塔
小さい門
お寺のまわりをぐるっと散策
小童寺からの眺め
1000年以上は前はどんな眺めだったのでしょうか、、、
グーグル地図
多田神社についてはこちら↓をご覧ください!
多田神社は清和源氏発祥の地/源満仲