昭和初期の池田駅周辺はどんな感じだったのでしょうか、、、
最初の阪急池田駅は現在よりも西側にあって
47年頃に東に移動し、新しい阪急宝塚線池田駅が作られました。
48年に改札が自動化、
54年に池田駅前南地区、北地区の再開発事業の都市計画決定
58年に駅前開発によって下り線が高架、
59年に上り線が高架となり、
線路で分離されていた市街地を結ぶこととなりました。
赤い印↓をつけた「ライオン写真」の息子さんは
石橋小学校の校長先生となるN先生で、
がんがら新聞などにたくさん文章を書かれています。
今回はN先生の書かれた文章の中から多く紹介いたします(*^-^*)
昭和初期の地図をご覧ください↓
ライオン写真
石橋小学校校長だった中島先生のお父様が経営していたお店です。
昭和5年、もともと写真館だった店を買い取って開業し、
屋号は前の店主がつけたのを使いました。
豊能郡池田村田中町、現在のNビルの西にあたるそうです。
旭かしわ店と、奥田金物店、ライオン写真と三軒長屋のような作りでした。
昭和5年といえば、いとや百貨店が開業した年です。
旧いとや百貨店/糸屋(近代建築)/前田金吾/池田市サカエマチ商店街
旭かしわ店
毎朝、鶏を締めるので、鶏の悲鳴で周囲の人々は目を覚ました。
魚治楼
明治・大正の頃池田駅前に「魚治楼」と言う大きな料亭があって、
大正の頃、高浜虚子が河東碧悟桐やときには与謝蕪村と酒を酌み交わし
俳諧談義に盛り上がることが何度もあった。
そんな折、魚冶楼の当主小林冶一氏が虚子に所望し書かれた扁額がある。
小林冶一氏の孫娘は「くろ川」に嫁ぎ、現在はくろ川に扁額がある。
高浜虚子の扁額がある”くろ川さん”のランチは超一流のお味
高浜虚子の扁額はくろ川さんで見ることができます♪
森氷店
夏は朝早くから大きな鋸で氷をシャキシャキと切っていた。
カフェーおいどん
昭和9年頃開業
東海林太郎が歌う「国境の町」が毎晩ラウドスピーカーから流れていた。
いくら名曲でもガラガラ声のスピーカーから毎晩ガナリ立てられてはたまったものではありませんが、
周辺住民からはその音にに対して「うるさいな」ぐらいで済んでいました。
おおらかな時代でした。
丸風呂
大抵の家にはお風呂がなかったので、たいそう繁昌していました。
だいたい3日に一度の頻度で通っていて、時間によっては顔ぶれが同じことで地域の人々の交流の場になっていました。
男女の浴槽がそれぞれ半円形で、合わせて円になるから丸風呂
しかし、産業道路の工事で取り壊しになりました。
丸風呂の裏の空き地はコガネムシの宝庫で、映画撮影所がチャンバラのロケをやることもありました。
駄菓子屋
一銭の洋食焼きがありました。
お好み焼きの先祖のようなもので、鉄板に薄くのばしたメリケン粉に赤い海老、鰹節の粉、青のり、紅生姜を振りまいて、醤油をかける、醤油の焼ける香りがたまらない。これを新聞紙に乗せて、子どもに渡す。
最後の方は新聞紙と洋食焼きがまじって何を食べているのかわからなかったとか、、、
夏はガラスの小さい器に色とろどりの寒天をかためて、氷の浮いたバケツに沈めて売る、透明なガラスに入った赤、黄、緑のゼリーが美しかった。
この店の跡地に今の正弁丹吾ビルが建つことになります。
裁判所
今の北田呉服店がある場所
コンクリートに囲まれて正面には鉄の扉がありました。
右側に鉄のくぐり戸があって、こちらはいつでも押せば開きました。
裁判所の裏は空き地になっていて、子供達の遊び場になっていました
中央に大きな柳の木が一本そびえていて、その横を北から南へドブ川が流れていた。
この場所には、女相撲やサーカス、ライオンや虎も来たそうですが
一番すごかったのは、オートバイのサーカスで円形の中を女の子がヘルメットもかぶらずにスパンコールの衣装を着て2台が交差しながら目にも泊まらぬ早さでぐるぐる回るのには、みんな驚いたそうです(*^-^*)
産業道路(176号線)
池田も大正末からバスやトラックが走り始め
車両通行に耐える幅広い道路や頑丈な橋が必要になりました。
大正15年に大阪府の都市計画事業として
大阪市を起点とする10路線の新設計画が始まりました。
その一つに府道大阪池田線が含まれていました。
北摂地区の産業開発を目的とした道路であったため産業道路といわれ、
昭和5年頃から10年にかけて工事が行われ、道筋を一変させました。
それまでは家の前は牛や馬や人のひく荷車がやっとすれ違えるぐらいの幅の道で、ほこりっぽくて、牛や馬のふんがあちこちに転がっていて
そのふんにたかったハエが家の中で入ってきて遠慮なく飛び回るすごい光景だったようです。
この時、この道が自分の家にかかるか、かからないかで大問題となった。
ある家は壊され、ある家は道幅だけ後ろに移されたのですが、
家をそのままたくさんのジャッキで持ち上げてコロを使ってゆっくり動かしたそうです。
昭和初期の池田
昭和初期、今のステーションNがあるあたりは
オイドンのスピーカーから流れる「国境の町」、
女給さんの嬌声、
風呂帰りの人々の下駄の音
子供達のかん高い声、
すぐ横を通る電車の響き、
この界隈田中町が一番賑やかだったのではないかと言われています。
このあたりに住む人々は昭和20年、
敗戦直前に強制疎開によりやむなくこの地を離れました。
参考文献
池田市史
昭和初期の池田 子ども物語
昭和初期の池田
がんがら新聞