池田勝正は、織田信長の配下で手駒となり
各地の戦に池田勢を率いて参戦。
足利義昭を倒すために京都に攻め入った三好三人衆を迎え撃つなど
各地を転戦します。
そして下克上の流れに翻弄されていきます。
池田一族の中心として力を持っていた
「池田四人衆」のうち二人が1563年に殺害されました。
この事件により対立関係が一気に表面化し、
勝正の支配が揺らいでいきます。
1570年
池田城主勝正に敵対する一派は、三好三人衆と手を組みクーデターを起こします
この三好三人衆は主家の細川氏を下克上により倒し
三好長慶を引き継いで摂津国の領有権を得ましたが
織田信長が攻めてきた時に逃げてしまいました。
しかし再び摂津国を取り返したいと機会を狙っていました。
信長が岐阜に帰り、京都の防備が手薄となったのを機に
荒木村重ら池田二十一人衆が三好三人衆と結託して
勝正の弟知正を立てて、勝正を拘束し刀根山あたりで解放。
勝正はわずかな人数で大阪に落ちていったそうです。
それから勝正は織田・足利軍について各地を転戦し
1571年には細川藤孝と池田城攻撃に参加しましたが
池田城は落ちず、勝正は原田城に入りました。
この混乱の中、頭角を現したのが、荒木村重です。
この村重は父高村の代から池田氏に仕えていました。
村重は池田知正から政治・軍事の実権を握られて
ここで主家と主君の立場が逆転します。
村重は城内をとりまとめ、支配領域を拡大します。
「摂津の三守護」の一人である和田惟政を滅ぼし、
さらに茨木重朝を滅ぼし茨木城を手中に収めます。
そして和田惟政の息子和田惟長を和田氏の家臣であった
高山重友・右近親子に討たせ高槻城も手に入れます
1570年のクーデター以降、村重は三好三人衆と手を組んでいましたが
信長の勢力拡大と三好三人衆の弱体ぶりを目のあたりにして
突然信長方に組み入ることを決め、
上洛してきた信長に知恩院で接見し忠誠を誓います。
信長は高槻城での働きについて村重を褒め称え
「摂津守」として一国支配を認められました。
村重は主君であった池田氏がなれなかった戦国大名に成り上がります。
そして原田城の勝正を攻め、高野山へ追放してしまいます。
その後の勝正は細川藤孝に仕え、そして摂津三田の有馬則頼に仕えた。
しかし村重に殺害された説など様々あり
勝正の終焉は謎に包まれています。
1574年
伊丹親興を陥れた村重は伊丹城を有岡城と改名して拠点を移します
そして池田城は廃城となりました。
池田城物語①池田氏のはじまり、藤原姓を名乗っていた
池田城物語②応仁の乱に参戦し落城から復活
池田城物語③/池田城落城で池田貞正が家臣とともに大廣寺で切腹、血天井
池田城物語④/久宗(池田信正)が池田城を奪い返す!
池田城物語⑤/久宗(池田信正)突然切腹を言い渡される!
池田城物語⑥/細川政権が終わる、池田長正の時代
池田城物語⑦/池田勝正は織田信長と勇敢に戦い池田城は落城
池田城物語⑧/荒木村重に池田城を奪われる!下克上/大阪府池田市の歴史
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戦国大名池田勝正研究所
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