弁慶の泉は地元の熱い思いで蘇った史跡/池田市

池田市豊島南2丁目にある
史跡 弁慶の泉をご紹介いたします 🙂 

弁慶の泉とは

1185年、鎌倉時代が成立した年のこと

源義経と弁慶は、深い事情があって、
異母兄である源頼朝に追われていました。


西国街道を逃れて、尼崎へ行く途中、
追ってである多田蔵人行綱らと戦い、これを迎え撃ち、奮戦して
その後にお水を飲んだのが、この泉なのです(^^)/

※昔は鎌倉幕府が成立したのは、
1192年「いい国つくろう」と覚えたものですが
1185年「いい箱つくろう」に今は変わっています。

伝弁慶の泉由来記
この泉は、享保二十年(1735)年に編纂された摂津誌に
「俗伝弁慶止渇干此」と記されています

場所は旧西国街道

旧西国街道沿いを少し入ったところ。
十二神社のすぐ近くですが、自転車で行きましたがわかりづらかったです。
十二神社については以前の記事で書いております→十二神社は鎮守の森

池田市史跡名勝天然記念物

昭和53年に指定されています。
このふさふさの木の葉っぱに隠れて看板が見えなくなることもあるみたい(@_@)


史跡に指定された昭和53年には、”水たまり”みたいな感じだったそうで
史跡というには、どうもイマイチな感じでした。

地元の方々からは史跡になる前から「調査せなあかんのちゃうか」と
声があがっていて、調査がはじまりました。

「弁慶の泉記念碑設立委員会」

枯れていたと思われていたこの泉、
なんと!日に千トンものわき水が可能であることがわかり
地元有志で「弁慶の泉記念碑設立委員会」を結成!
3800万円もの事業費を出し、整備をはじめ、
54年には史跡として生まれ変わりました。


泉のまわりは囲まれて昔のような風情はなくなりましたが
小さな公園のような、ベンチもあって憩いの場になりました。

高さ4メートルの大きな石碑、
泉の周囲を石垣で囲んで泉は水深を5メートルまで掘り下げました。

この石碑は弁慶のイメージに合ったものを
各地の石材産地をまわって見つけてきたという
実行委員の熱意が伝わるものです。


泉の中はこんな感じ↓金魚と亀がいました。


昔は地元の人に大きな恵みを与えていました

この泉は整備される前は水を汲み上げるポンプ小屋があって
農業用水として利用されており、地元農家には大きな恵みであり
子供達の水遊びの場でもあったそうです。

日照りが続いても枯れることなく、甘くて冷たいお水で飲料にもされていました。

都市化されていき、わき水がとまり、
荒れ果てて泉の存在すら忘れられかけていたところ
古い伝承を大切にしたいという地元有志の方の熱い思いで蘇りました。

こじんまりした日本庭園みたいな感じでした
西国街道といえば、豊臣秀吉が中国大返しで駆け抜けた街道でもあります。
この近くには受楽寺や、他にも少し歩くとお寺や神社があるので
街歩きされてみてはいかがでしょうか(*^-^*)

参考文献/西国街道、池田市史

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