小浜宿の毫摂寺(ごうしょうじ)は亀姫の悲話が伝わる/宝塚市

宝塚市小浜宿の毫摂寺(ごうしょうじ)をご紹介します!
小浜地域が寺内町として発展する中核となったお寺です。


■山 号 出雲路山
■宗 派 浄土真宗本願寺派
■御本尊 阿弥陀如来
■開 基 善秀
■住 所 兵庫県宝塚市小浜5-5-12

小浜宿(こはまじゅく)とは(^_^)/
15世紀末から江戸時代に栄えた有馬街道の宿場の一つで
京伏見街道、西宮街道も通り、交通の要衝であった。
名水「玉の井」の地で酒造が発達し、大工衆の町としても名を馳せた。
亀姫の悲しいおはなし
豊臣秀吉の養子、秀次が有馬湯治の際に毫摂寺に宿泊し、
寺の次女である亀姫を見初めて側室(小浜の局)としました。
しばらくは幸せな日々が続いたようですが、、、

秀次が失脚・切腹すると、妻子や他の側室とともに亀姫も三条河原で処刑され、毫摂寺も焼き打ちにあいました。

アクセス

★阪急宝塚駅売布神社駅から徒歩で約20分ぐらい

★阪急宝塚線宝塚駅から、阪神バスに乗り「小浜」下車。

wikipedia様より地図をお借りしました↓

 ↓資料館でもらった地図

小浜宿の毫摂寺(ごうしょうじ)

小浜御坊とも呼ばれています。

もともとは南北朝時代に京都の加茂川畔に創建。
応仁の乱で全焼し、今の場所に移設されました。

戦国時代は堀に囲まれたお城のような存在だったそうです。

豊臣秀吉が有馬湯治の際、千利休を伴いこの毫摂寺に宿泊し
山中家の井戸「玉の井」の名水で茶をたてたと言われています。

1595年の豊臣秀次の切腹に際し、側室の亀姫がこの寺の次女だったことで
再び焼き打ちに遭いますが、徳川時代には復権。

御門跡の兼帯所として十六菊花の紋章を許され、
今も軒丸瓦に名残が残るほか、
土塀には定規筋と呼ばれる五本の線が刻まれ、格式を誇っています。

↓土塀の五本の定規筋が見えます!

門が閉まっていたので、入れないのかな、、、と思いましたが

ぐるっと塀づたいにまわってみると、開いてました(^_^)/

現在の本堂は江戸時代末期に再建されたものです




開基堂(納骨堂)

鐘突き堂と石碑

何が書いてあるのでしょう
調べてみましたが、わかりません、、、



最後までご覧いただき、ありがとうございました!
燈籠や石碑の詳しいことがわからず、不完全燃焼ですが
また何かわかりましたら更新します(^_^)/
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